Archive for 9月, 2010

9月 17th, 2010

アレクサンダーテクニークの気づきの使い方

気づく力というのは、自分自身の再方向付けにとてもパワフルなエネルギーになりますよね。

でも、この「気づき力」っていうのは、使い方次第で、自分の邪魔をすることもあるように思います。

「ああ!私こんなことをしている!」っていうシンプルで明確な気づきは自分の方向性を変えるのに役にたつきっかけとなる。

けれど、「今、首を緊張させた、あ、こんどは親指が緊張した、あ、と思ったら胸のあたりに硬い感じが・・・あれ?もしかしたらさっき呼吸を止めていたのでは?」
と、絶えずチェックチェックチェック・・・と自分の部分部分の情報をチェックして、
まるで体の上でスポットライトが踊ってるように、意識のフォーカスがあっちに行ったりこっちに行ったり・・・
忙しくて、建設的でもなくて、自分の中に厳しい審判を置いているような感じがします。

もしかしたら、自分の気づきが高まっていて良いように感じるかもしれないけれど、
そういった部分の情報にとらわれてしまって、全体性を失うことにつながったり、
アレクサンダーテクニークでいうところのミーンズウェアバイ(目的に至る手順)・プロセスを途切れさせてしまったりするように思うのです。

じゃあ、どうしたらいいんでしょうね。
レッスンの中では、そのつど、その生徒さんの意識の使い方についてアドバイスしたりはしていますが、自分の中であらためて、整理してみたいと思いました。

「あ!私こんなことしている!」っていうのが「使える気づき」になるとき、それっていったいどんなときなんでしょう・・・。

今思うのは、「私は私に、こんなメッセージを送っていた!」と気づく時、かな・・・。
そのメッセージが意図的にしろ、無意識にしろ
「起きている」っていうような捉え方ではなくて、
「私はそれをしている」というのが明確なとき。

たとえば・・・スープをスプーンで飲もうとして、頭をスプーンの方に近づけたことに気づいたとき。
「あ! 今、スプーンを口もとにもってくるのではなくて、口がスプーンを迎えに行っている!
それによって、私の頭と胴体の関係性が縮んで過剰な緊張感が増えてしまった」
と気づいたなら、それは使える気づきなんじゃないかな。

「このやり方・方向性によって、頭と胴体の間で不要な緊張が起きている」
という、明確な気づきが得られていれば、
新しいやり方・・・「首を自由にして”スプーンを口にもってこよう”」というメッセージを新たに自分へ与えることができる。

   

でも・・・「あ、今、ここが硬い。じゃあ、ここの力を抜いて・・・、あ、今度はこっちが緊張してきた・・・じゃあ、こっちが正しい方向かな?
あれ? なんだか足が突っ張るけれど・・・どうしたらいいんだろう???」

っていう気づきの迷走は、自分を大変にさせてしまうだけ。

アレクサンダーテクニークは、もっとシンプルなものなんだと思っています。
腕で何がおこっていようが、足で何が起こっていようが、
まずは、首・頭・胴体の関係性。
その方向性について「意図すること」が
「どうしたらいいんだろう」の回答なんだと思います。
しかも、毎回、それが回答なんだと思います。
今回は、ではなくて、いつも。

9月 10th, 2010

美しさとアレクサンダーテクニーク

BodyChanceから、楽しい雰囲気が伝わってくるメルマガが届きました。
明日から授業が始まるマリー・フランソワーズ先生が、日本に到着したそうです。

スタッフとマリー・フランソワーズが
<アレクサンダーをビューティーに活かす>
という内容で会話に花が咲いたということです。

女優さんのように美しいマリー・フランソワーズにふさわしいテーマだな。

私にとって、「アレクサンダーとビューティー」というテーマは、いまいちわからないものだった。
なぜかというと、それはつまり、アレクサンダーテクニークを学ぶことで、自分の美しさに影響がでたか?
というテーマにもつながるからです。

美しさの概念って、なんでしょう。
ほんとうに、ひとそれぞれ、多くの解釈がありますよね。

生徒さんをみていて、「美しくなった」と感じることは、多々あります。
・動きの流れが美しい
・心身の緊張感がへって、余裕がうまれている
・表情があかるくなった
・筋肉のつき方がかわる
・人前に出るときに、堂々と大きく見える
・声に深さや、落ち着きがます
・立ち姿・歩く姿に存在感が増した

モデルさんとのレッスンで、
「女性らしい曲線がでるし、自然なポーズをとることができる」
というフィードバックを受けたこともあります。

私はそういう部分について、美しいなあと思うのだけれど、
巷の雑誌をにぎわしている「美しさ」は必ずしもそういうものではないように思います。

アレクサンダー・テクニークで生まれる美しさは、その人らしさ・生命感の美しさであると感じます。

BodyChanceのメルマガによると、
「アレクサンダーを使ってエレガントに帽子をかぶる方法を教えられるわ!」
とマリー・フランソワーズが提案して、その場でレッスンをしたようです。

日々トレーニングをしたり、食事を変えたりする美容法もありますが、
頭と脊椎のコーディネーションを意図することで、
ちょっとした日常の動作にエレガンスを与えることができるって、
アレクサンダーテクニークのよさだなあと、メルマガを読みつつ思いました。

そう考えると、美しさに関してアレクサンダーテクニークできることって、たくさんあるように思う。

・お茶を飲むとき
・会話の中でうなずくとき
・お風呂で身体を洗うとき
・お皿に料理を盛り付けるとき
・頬杖をつくとき

・・・きりがない。

そういったアクティビティーレッスンを「美しさのためのレッスン」としてとらえることは、私はあまりなかったけれど、
確かに、きれいにうごけるようになりますもんね。

しかも、ラクでありながら。

その「きれい」が、誰かの基準と一致しているとは限らないけれど、
私にとっては、きれいだな、って思う。

よく、「きれいに歩けるようになりたい」といってレッスンを訪れる方もいるのですが、
そのときに、この方の言っているきれいと、私のきれいは、言葉の意味しているものは同じなのかな?
と思うことがあります。

アレクサンダーテクニークでいうところの美しさは、調和・バランス・スムーズさでしょうか・・・
雑誌やTVで美しい歩き方として紹介されているものとは、違うことがあります。
「おなかを引き締めて!」「背筋をまっすぐ伸ばして!」
というような、自分を固めるようなものではありません。
必要な緊張であれば、腹筋も使われるだろうし、背筋の緊張感も変わります。
けれど、自分から、固めて引き締めるような感じではないんです。

私は、アレクサンダーテクニークのから得られる、
脊椎動物らしい、頭から脊椎へ、脊椎から手足へ・・・と流れをもった動きの美しさが好きです。
それは、トップアスリートや、すばらしいパフォーマーたちの動きが美しいのと同じです。

アスリートやパフォーマーだけでなく、日常生活の、普通の生活が
そういう美しい動きとともにあるというのは、すごいことですね。

そう考えていくと、
「アレクサンダーテクニークを学ぶことで私は美しくなった」
とは、言えないけれど
「不要な緊張を減らして、自分らしく美しく動けるようになってきている」
とは言えそうです。

アレクサンダーテクニークを美しさのために・・・というのは、あまり意識したことはなかったけれど、
そういう観点で、日常で美しさを作り出していくことは、人生の質を全く違ったものにしてくれそうです。

9月 10th, 2010

アレクサンダー・テクニークについてを更新

アレクサンダー・テクニークについてのページを再編集しました。

アレクサンダー・テクニークの原理に関する細かいことは記載されていません。

すこしづつ、このサイトのブログ記事の中で、アレクサンダーテクニークの原理について書き溜めていけたらいいな・・・と思っています。

アレクサンダーとは関係のないブログあれくだんだー教師の ふつうの生活も、再開し始めました。

9月 9th, 2010

どうしたら、うまくやっているかわかるの?

よく聞かれることのひとつなのですが、
「自分ひとりでやっているときに、うまくいっているかどうか、どうしたらわかりますか?
自分でやっていても、これでいいのかどうか、わからないんです」
と。

「わからなくていいんです。わからないんです。」

そうすると、多くの場合は、さらに不安な顔をされてしまい、
申し訳ないなーと思うのですが・・・。

たしかに、レッスンの中で、「わ!今、ぜんぜん違う!うまくいった!」という体感がある。
あるときも、ある。
でも、ないときも、ある

その感覚を求めてレッスンをするのは、はじめのころは仕方ないとしても、
だんだん必要ない事になっていくといいのではないかな。

確認することなしに、自分の意図を信頼することは、難しいのだろうか。
確認しなくていいということが、逆に安心をくれることにはならないのだろうか。

「わかりたい」というのは、当然の感情だけれど、
「わからなくていいんだな」というのは、確実にひとつ「わかった」事でもあると思う。

アレクサンダー・テクニークがしたいのは、うまくいっているかどうか確認することではくて、
うまくいくための明確なプロセスを意図し続けることなんだと思っています。

でも、アレクサンダー・テクニークを始める動機は、みんな、「うまくやりたい」なんですよね。
当然ですが。
だから、「うまくやっているかどうか確認したい」のも、当然だと思います。

でも、アレクサンダー・テクニークをうまくやりたいなと思ったら
「うまくいっているかどうか自分で確認することは、アレクサンダーテクニークのプロセスの一部ではない
と知っているのは重要だと思います。

多くの場合、うまくいっているかどうか確認しようとしたとたん、そのプロセスが止まってしまう。
結果を振り返るような作業にはいってしまって、
プロセスをすすめる作業がおろそかになる。

そして、結果を振り返って、確認しようとしても、
体感という感覚は、必ずしも正確ではないのだから・・・。

うまくいっているということは、どういうことなんだろうか。
習慣的な反応から離れて、今、どれだけクリアに意図し続けていたか。
それがうまくいっていたとき、
私は生徒さんに「そうそう!」って言いたくなる。

それは実際に、新しい結果を生み出してもいる。

そして、本人は、必ずしもその変化を感じているとは限らない。
感じるとは限らない。
わかるとは限らない。

だから、わかんなくてもいい
と、信頼ができれば、プロセスはもっとシンプルになると思います。

それでも「感じたい・わかりたい」欲求は、十分に理解できるけれど。

9月 8th, 2010

体調とアレクサンダー・テクニーク

今日の朝は、ひどく身体がだるかった。
ぎりぎりまで寝て、朝ご飯をたべ、また横になり、シャワーを浴びて、また横になり・・・。
とても外出できるような体調ではなかった。

それでも仕事があるし、目黒のBodyChanceスタジオまで行かないと!と気力をしぼる。

電車の中でも爆睡して、移動で歩いているときは、ずっしり身体が重く、
エスカレーターで運ばれている間でさえ身体を支えているのが辛かった。

そんなふうに身体がだるい日は、ココアを買ってスタジオに向かう。
その糖分や味覚は、私にとって栄養ドリンクみたいなもの。

それでも今日のこの身体状況は、一日続くのだろうとおもっていたのだけど、
なんと、少し時間がたった今は、元気はつらつ。

こうやって、仕事(それが家事であろうがJOBであろうが)は、私にとって元気をくれるものなんだなあと実感する。
基本、怠惰で無気力な私は、そういう「やらなければいけないこと」をきっかけに気力や元気をもらえる。

はじめは「よいしょ」と始まることもあるけれど、
次第にエネルギーが回り始めて、私に活力をあたえてくれる。

けれども!アレクサンダー・テクニークを学ぶ前は、そうでは無かったように思うのです。
元気を感じていても、それはまるで暴走的な元気さで、無理矢理動く感じが1日中続いていた。

そして、グテっと死んだように電池が切れてしまうか、
妙にテンションをあげてがんばっているかのどちらかだった。

たぶん今は、体調が悪い事を受け入れることが以前より上手くなったし、
その中で動くとき、無理矢理ギアを入れるような事が少なくなったのかも知れない。
(そういう風に無理を減らせるようになるまで、なんども身体を壊して倒れた・・・)

頭と胴体の関係についてデリケートでありながら、私のこの体調と一緒にいる。
それによって、活力が戻り始めた時、スムーズに身体全体に元気さが戻って行くような気がする。

アレクサンダー・テクニークを学ぶ事によって
疲れない身体や、病と無縁な身体になれるわけではない。
でも、そのような状況に置いて、どう活動するのかということを学ぶことができる。
それが、「体調というプロセスを通過すること」にすごく役にたつのだと思います。

それは、「治療」「治す」ということとは違って「変化の波に乗る」というような事かな。
習慣的な対応をしていると、その変化の波を無理矢理作ろうとしてしまったり、波を止めてしまったり、
波に乗るタイミングを外してしまったりする・・・そんな感じかなあ。

さっき、「あれ?そういえば元気だな」と感じて、
なんでだろう?と思ったら
ちいさなきっかけは、ココア
大きな理由は、仕事
それらを支える大きなバックグラウンドはアレクサンダー・テクニーク
なのかなと思った。

「仕事」の中に含まれるんだけど、「仲間/生徒さん」からの影響もすごく大きい。
仲間や生徒さんからうける影響は私にとってはすごく重要。
コミュニケーションの中で、エネルギーの交流が起こって、それは私にとって力になることが多い。
仕事をすることで元気をもらえるというのは、とってとても幸運なことです。
(そうはならずに「疲れたー!!」といって一日が終わることも多いのだけど)

アレクサンダー・テクニークは私にとって日常の一部となり、
以前のように「ぎゃー!」と大改革をもたらすことも少なくなっているのだけど、
実感のないままに日々私に変化を与え、その恩恵ははかりしれないなあと感じます。


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