Archive for 9月, 2011

9月 22nd, 2011

アレクサンダーテクニークで開かれる表現力

本棚を整理しているときに、古いレッスンノートを開きました。
私がアレクサンダーテクニークの訓練生だったころのノートです。

その中に、アクティビティレッスンの記録がありました。

それは、「子供と話す」というレッスン。
「子供が言うことを聞いてくれない。わかってくれない」 それについてのレッスンでした。

子供を叱る、上司に意見を言う、友人に文句を言う

そういったレッスンも、アレクサンダーテクニークのアクティビティレッスンとして扱われることが多くあります。

アクティビティレッスンとは、実際にその行為を行いながら行うレッスンです。
ノートに記録されていた「子供にわかってもらう」レッスンで、私は子供役になり、母親に叱られる側からレッスンの観察をしていました。

始めに、生徒さん(お母さん役)は、いつものようおに子供(私)に話はじめます。
何を話されたのかは記録になく、記憶にもありません。
でも、ノートには「お説教。 お説教というより、批判され拒絶されている様だった」と、そのときの気持ちが書かれていました。

次に、アレクサンダー教師が生徒さん(お母さん役)にハンズオンレッスンを行います。
 (*ハンズオンレッスン=教師が生徒に触れて、頭・胴体の調和する関係がやってくるように助けます。)
教師に触れられながら、お母さん役が、また話しはじめます。

すると、お母さん役の話し方がまったく変わってしまったのです。
いまにも泣きそうな、そんな様子に。

私はこう記録しています。
「とても悲しそうだった。お説教ではなく、とても心配していて、お母さん自身が不安で仕方がないんだなと感じた。 
実際にああいうふうに、”母親”としてではなく、一人の弱い人間という部分が見えるところから語られたら、私は本当に動揺するだろうな。
本当に、言われていることに耳を傾けて、そのことについて考えようとするだろうな。」

私は、そのお母さん役のコトバではなく、その存在全体からメッセージを受け取ったようです。
そして、さっきとまるで違った様子に驚きつつも、実際に自分が実の母親からそのように語られたら動揺し、話に耳を傾け、その訴えについて考えるだろう・・・と、わが身に照らし合わせて心を打たれたようです。

レッスンの課題「子供が言うことを聞いてくれない。わかってくれない」という問題が、お母さんの身体に調和がやってきたとき、このような流れになった面白さ。
それを、頭ではなく、心で理解するという体験をしました。

このノートを読み返しながら、とても新鮮な思いでした。

アレクサンダーテクニークのレッスンで”話す”というレッスンの結果として「はっきり、クリアに、明確になる」ということがよくあることですが、それとは違った表現力が引き出されるというのも、大事に心にとめておきたい部分です。

感情が声をかすれさせ、震えさせてしまったことによって、もしかしたら「うまく語れていない」と感じるかもしれません。
けれども、「自分の思いについて述べる」その伝える力は断然繊細になり、真実味を帯びて私(子供役)の方に届いてきました。

このシチュエーションは、コトバを伝えなければならない「セリフ」や「歌」というものとは違います。
「子供にわかってもらう」この目的を十分に果した素敵なレッスンでした。

私が音楽家や役者さんなど表現者の方たちとアレクサンダーテクニークのレッスンをしていて心打たれるのも同じような視点からです。
その人の動き、声、表現する音、そういったものから「その人の想い」もしくは「その人自身」がより繊細に伝わってくることが、奇跡のように起こるからでした。
(ただし、彼らの場合は感情に乱されて何を言っているのかわからない、音程が狂う・・・となったらうまくいかないので、そうならないためのレッスンになることも多いです)

実際、はじめてアレクサンダーテクニークのアクティビティレッスンを見たときは、マジックか魔法か・・・ホントにそんな奇跡を目にしているようで、とても感動しました。

「思いが、伝わる」 それは、ごく普通で自然のことなので技術ではないのかもしれませんが、多くの人がそれを抑制しながら表現しているのを見ると、表現できるようにすることはやはり「技術」に含まれるのかもしれません。

私たちは、「伝えるために、何かをしなくては」と考えたりしますけど、
本質的には、自分の抱えているものは「伝わってしまう」ことがほとんどであるように思います。
そして「何とかしなくては」を抱えているときには、その「何とかしなくては」の必死さの方が伝わってしまって、「伝えたいこと」の方が伝わらなかったりすることもありますね。

そもそも、私たちは「受け取る力」というものもいろいろフィルターを抱えていることが多いので、伝える側だけの問題ではないと思いますが、それでも自分のあり方ひとつで、伝える態度・受け取る態度は変わりますし、自分のあり方が変われば、相手のあり方が変わることも多いです。
「自分の使い方」は伝染しますから。

古いノートを読み返し、
伝える力は、必ずしも明朗に話すこととイコールではないこと
アレクサンダーテクニークによって起こることは、「あるべき姿」ではなく、その人の生命感が花咲くような姿であることを思い出しました。

9月 8th, 2011

眠れない夜にアレクサンダーガイダンス

先ほどまで、眠いのに眠りたいのに眠れない・・・という状況で布団の中にいました。

昨日・今日と出かけていて、そのときに体験したことを振り返ってしまい、脳みそがなかなか寝てくれないのです。

身体はなんだかこわばっていて、疲れているのに開放されず、ゆっくり布団の上で休めない、そんな状態でした。

布団の中で、ぐるぐるいろいろなことを回想中、私の先生の一人であるキャシーとのレッスンも思い出されました。

以前、子供を抱っこする姿をレッスンしてもらったのです。
キャシーにレッスンで教えてもらったのは、私は子供を抱っこするとき、肩を後ろに寄せるような方向性で、ほんの少し腕を引き込む癖があるということでした。

背骨をちょっぴり反らせ・頭・胴体を押し縮めて抱っこをするような状態ともいえます。

アレクサンダーテクニークではディレクションを

首が自由に
頭は前へ上へ
背中は長く広く

と表現するのが一般的ですが、実際のレッスンでそれに該当するものへ導くとき、キャシーはちょっと違うガイドをくれます。

彼女のガイドは

「頭が動いて身体全体がついてきて○○することができる。」

です。

私は布団の中で「頭が動いて身体全体がついてくる」と心の中で言いました。
・・・それでも、快適に眠りにさそう状況がやってきません。

「あ、わすれてた。  ”○○できる”  の部分」

そうしてもう一度自分に言いました。

「頭が動いて体全体がついてきて眠ることができる」

すると、頭がすっと動くと同時に背中がゆるみ、腕がふわりと脱力するように楽になり、布団の上で気持ちよく横たわる状態になったんです。

うわーーー。そうだ、私は脊椎動物だった。
そう連想されっる位、頭と背骨が連なってゆったりし、まるで自分が蛇になったかのような感じがしました。
きもちいい・・・ああ、これで眠れる・・。

どうやらわたしは、以前キャシーに教えてもらった脊椎を縮めながら腕を引き込む癖を布団の中まで引きずっていたようです。

そして、気持ちよくなって、このまま眠れるなあとおもいながら、
さて、このことを明日ブログに書くか、今書くかと考えました。

いまはこのまま寝てしまいたいというのが本音だけれど、今書かなかったら、明日は書かないだろう。
それに、いま起きてももう一度、「頭が動いて体全体がついていって、眠ることができる」をやればいいだけだ、と考えました。

この、最後に「○○することが出来る」で締めくくることは、大事なことだと思います。

キャシーとのレッスンで、「うまくいかない」と相談したとき、
「あなた、最後まで ”○○することが出来る” って言った?」と聞かれました。

「あ!言ってない!」

そうして、彼女のアドバイスにしたがって”○○することが出来る” を付け足すとうまくいく、という体験をしたことがあります。

(なのに、今回、また忘れてしまったのですけど)

私自身が行うレッスンでもこの言葉を使うときがあります。

たとえば、「仕事中、身体がガチガチになる。もっと楽な身体ですばやく行いたい」という希望でレッスンをいくつかしたことがありますが
(この問題でレッスンを希望されるかたは、結構います。)

そのときも

「頭が動いて体全体がついていって、○○することができる」で、うまい具合に、ラクに、早く出来る姿を何度もみてきました。

そして、多くの方が、ラクに早く動きながら、自分のこの状態に驚いていたり、笑っていたりしました。

レッスンの中では、単にそのことばを思う・言うだけではなくて、教師のハンズオンという手助けがあるわけですが、「行為の中で考える」「その行為が何かを含めて考える」というのは、動きの連続性を助けてくれると思います。

ということで、もういちど

「頭が動いて身体全体がついていって、入力することが出来る」

と思いながらブログを書く作業を終了し

「頭が動いて体全体がついていって眠ることが出来る」に移りたいと思います。

9月 6th, 2011

姿勢が悪くて身体がやせる?

今日は、4回目の投稿です。
病のことばかりですみません。

今度は母のことなのですが、先日久しぶりに実家に顔を出しました。

母は昨年脳出血で倒れ、左半身麻痺となり、いまは弟と暮らしています。
退院後、実家に母が戻ってから帰省するのは今回がはじめてで、どのように暮らしているか気になっていました。

母は元気に暮らしていましたが、すっかりやせてしまっていました。
とはいっても、もとがもとなので、いまは私よりすこし細いくらい。

まあ、それくらいやせても大丈夫か・・と思っていたら、食が全然すすまないとのこと。
あまりに食べないので心配になりました。
作るのも面倒だし
味覚があんまりないのよね
など理由を挙げていましたが・・・

あるとき

「胃が気持ち悪いのよー。食欲がわかなくてねえ」と。
そして「猫背になって、胃を圧迫しているのかしらねえ」というのです。

「そうだよ! そんなに丸くなって、圧迫してるよ!」というと
「え?そう?」と

母は、自分の姿勢がくの字にグテっと丸くなっていることに気づいていなかったのです。
私はそれに驚きました。

私の方は、ずっとその姿勢が気になって、時々背を伸ばすよう促していたのですが、
当の本人は、まったくわかっていなかったなんて。

「わからないいのよー。自分では」というのです。
それは、麻痺のせいなのか、それとも単に身体感覚が鈍いからなのかわかりませんが、母は胃が気持ち悪いと思って「姿勢が原因?」とは思っても、自分の姿勢の悪さにまったく気がついていなかったんです。

多かれ少なかれ、誰でもそういうことはありますけど、
あまりのひどさに、わたしは驚きました。

でも、改善しようにも、母にはそれが難しいようなんですね。
「アレクサンダーを教えてあげようか?」というと
私のしていることに興味のない母には珍しく「うん」というので、レッスンというよりは、簡単なアドバイスを伝えました。

母は立つときも座るときも首をぎゅっとさせて身体を押し縮めていましたし、
ひざを内側に内転させる癖があったので

「前を向いたまま立とうとしないで、股関節からお辞儀をして、足に体重がかかってきたら立ってね。」
「ひざは内側ではなくて、前にむけてね」と。

なんともハウツー本のような、乱暴なアドバイスですが、この際、いまのままよりは、ドゥーイングになってもよいだろうと思いました。
私は母の性格をよくわかっているので、あまり時間をとったりこまごまいうと「ああ、もういいや」となってしまうとおもったので。

そして、問題は座ったとき。
座ると、肋骨の下でぐちゃっと身体をつぶし、典型的な猫背(背中の丸いおばあさん)になっていました。
日中、ほとんど寝るか、座るかしている母に、これはよくありません。
背もたれにクッションを入れて、寄りかかっていれば猫背になったり反ったりしないようにしました。

これはもう対処療法ですが、とにかく、いまの姿勢を続けさせてはないらない・本人が続けられないと意味ない、ということで簡単だけれど、こうすりゃまだましでしょ、という感じです。

クッションを入れた翌日 「あんたがクッションをやってくれたから、身体がらくだわー、背中が痛くなくなった」と言っていました。見ると、以前のようには胃の圧迫もしないでいられているようでした。
これで、食欲が出てくれると良いのですが・・・。

今回は、自分の親に「使い方が機能に影響する」という、あまりにもわかりやすい具体例をみて、愕然としてしまいました。
そりゃやせるわー・・・と。
食べなくて病気になるかとおもったけれど、その姿勢も病気のもとだからな、気をつけてほしいなあ。

9月 6th, 2011

信念(使い方)が変わり知覚(機能)が変わる

前回の記事の中にある

「すべての世界が(使い方も)ガラリと変わりました。

いまおきていることを信頼してゆだねる。
抵抗しない、がんばらない。焦らない。
結果を想像どおりにしようとしない。」

の例として、私を救ってくれた印象的な例を挙げたいと思います。

今年の5月、私は入院して、毎日色々な検査をしていました。

そして、ある検査結果を診て主治医が、
「脇のリンパが、すこし炎症をおこしているかも。 ほんの少し。
触診しても全然わからないくらい小さいようですけど・・・。
まだわかりませんが、炎症部分を切り取って検査をするかもしれません。」

とおっしゃったんです。

そのときは、「はあ・・・」って感じでした。
なんとなく、「リンパを切るって・・・危なくないのかなあ」とぼんやり考えていました。

そのぼんやりを看護士さんに尋ねたところ「いやあ、大変大変。それは大変ですね~」といわれ、そこからドキドキし始めてしまったのです。

その後、形成外科のドクターから詳しく検査の説明がありました。
「触診できないほど小さい炎症を採取するの大変なことだ。
砂漠の中で石ころを探すようなもので、
切りながら探していくので、深くなるし、炎症部分を見つけるのは難しい」
と。

メリットデメリット、いろいろな角度から説明をしてくれましたが、その先生からは「ご自分で決めることですが」と前置きされながらも、「やらなくてもよい」と遠まわしに言われているようでした。

実は私は、そのとき検査を提案した主治医に不信感を持っていたんです。

他のドクターたちが「意味がない」と言っている皮膚・脂肪を切り取る検査を行った。
過去、同じ症状で入院したときのどのドクターより数多い検査をする

私はこの先生に対して

「検査が好きなんだな
切られたり、放射線を浴びたり、それは私の身体が受けることなのに、
この先生は意味が薄いようなものでも、とりあえずデータがほしいんだな。。。」

そんな感じに捕らえていました。

だから私は、形成外科の先生の説明を受けて、今回のリンパの生検にはNOを言おうと、決めたんです。
だって、ほんとうに、先生が「難しい・・・!!」って頭を抱えていたので!!!
そんなの見たら、私は怖いです!

主治医に 「リンパの生検は難しいと聞きました。 意味のない検査はしたくないんですど」と言うと
間髪いれず、「意味があるから検査をするんです」と一蹴されてしまいました。
私は、それには、返す言葉がありませんでした。
そんなこと言われるとは思わなかった、という思いと、確かにまあ、そのとおりなのだろうけども・・・という思いの間で。。

そして、その後、恐怖心やら、不信感やら、いろいろ沸いて大変だったんですけれど、
「信頼しよう」ということに信念が定まったとき、世界がガラリと変わったのです。

「信頼しよう」は主治医にではなくて(笑) 私の身に起こることを受け入れようと潔くOKを出したということです。
それは、そのとき抱えていた恐怖感、不信感、葛藤、そういうものは全然私の役に立たないとが、はっきりわかったからです。
私の問題を解決するわけでもなく、私を安心させるわけでもなく、私の症状をラクにするわけでもない。
ただ、毎日を辛くさせているだけ。
これを抱えている間は、主治医ではなく、私が、私を辛くしているのだ、と理解したからです。

それに気づいて、私の身に起きることにOKを出すことにしました。

すると、世界は別世界。

私の信念が変わったとき、私の知覚が代わりました。
大変だ!! 怖いことだぞ!!
と、騒ぐ自分がいなくなったら、問題がなくなってしまったのです。

私が体験しているのは、快適なベッドで好きなときに寝て、ご飯を運んでもらって食べる。
気分がよければ売店にいくし、テレビを見る。
薬が効いているので、日中の痛みはない。
そして呼び出しがかかったら、検査に出向く・・・そんなのんびりした平和な日常でした

私は、私の身に起きることを受け入れよう、そう気持ちよく決めただけです。
それまでやっていた「怖い!嫌い!助けて!」そんな思いが、イヤになっただけのことです。

それなのに、私の目や、呼吸や動きが見違えるほど、ラクになりました。
恐怖や不安に思考が苦しめられることがなくなりました。
変わらない日常が、とても愛しくありがたく思えました。

自分自身で自分を安心の中に身をおくことができるのだと、私ははっきりと体験しました。
状況という条件付けをしている間は、なかなか難しいことでしたが、
条件というものをすっとばして「信頼」の中に身をおくとき、世界がまったく違ってみえて
「次元が変わる」というのは、こういうことをさすのかなと思いました。

予期せず、素敵なことも起こりました。
なんと、「この先生は良い先生だ」と思えたのです。
「この先生は、私の病を調べようと一生懸命になってくれている。
熱心で良い先生だな。先生のいうことなら、安心して身を任せよう」と勝手に思考や気持ちが代わったんです。

これには、われながらびっくり。
でも、とてもうれしいことでした。
そして、それは本当のことであって、いままで私が持っていた不信感の方が、私の作り上げた先生だったのだと思います。
しかし、なんて気分屋なんでしょう・・・。

葛藤が消え、穏やかになり、世界を見渡す余裕ができて、
先生が何を言おうと笑顔で受け答えができました。
そして、その検査をするかしないかの決断が下されるとき
「やはり、難しいとのことなので、やめることにします」という先生の話を聞いて
「やったー!!」ではなく、穏やかな気持ちで「はい。わかりました」と言うことができました。
それが、とてもうれしかったです。

私が、私を辛くしている

これこそが、私の自分の使い方の結果でした。

信念とは使い方の一部

知覚とは、機能の一部

「使い方が変われば機能が変わる」

これは、アレクサンダーが言っていることです。

こういった体験を通して、
いまは私、外の世界ではなく、自分の信念をまず疑わしく思うようになりました(笑)

P.S.
主治医は、私が退院したあとの通院についても考えてくれていました。
自宅から通うことができて、この病気について専門知識を持っている病院を調べ、紹介状を書いてくださいました。
今はそこで診て頂いているわけですが、とても感謝しています。
気分ひとつで「信頼のおけない先生」なんて思った時期を申し訳なく思います。

9月 6th, 2011

思考のケアとライフスタイルの変化

今日は、連続投稿になります。
長い間、レッスンやブログをお休みしていましたが、気づいたことは色々あって、
そのつど「あ、これはブログにアップしたい」と思うのですが、もうすっかり忘れてしまいました。。。
そのうちひょっこり出てくるとよいな。

前回の病気と使い方のテーマの続きなのですが、アレクサンダーの本を読んで
「使い方を改善することで病気が回復するのなら、私だってそうしたいところだけれど・・・!!」
と、イラっときました。(笑)

アレクサンダーの主張に希望を見出しつつも、納得できるように自分の使い方を面倒見ることが出来ず、未熟さを感じました。
それに、「使い方だけが問題じゃないよ。」と、反抗的な自分もいました。

とはいえ、使い方が人間の生理的機能、思考に影響を与えることは疑いの余地はありません。

少しでも自分の使いかたを気をつけようとしましたが、思い出しては、忘れ、思い出しては、忘れ・・・
私の思考はすぐにフラっとどこかに行ってしまいます。

病院の待合でアレクサンダーの本を読んで、「よし!気合が入った、気をつけていこう!」と思った矢先、
診療室で先生と話すときには、「え?それって、こういうことですか??」と、身を縮めながら先生と話している始末。

そんな自分をリアルタイムで観察できているだけ、まだましな状況だとは思いますが、自分のしていることがわかっても自分の使い方を十分に方向付けることができないのに、24時間自分の使い方を面倒見続けることが出来るわけありません。

よく生徒さんが、すぐに忘れてしまう、変えようと思っても変えられなかった、おっしゃいますが、そんなもんです。
その度合いがレッスンの積み重ねで変わっていくだけのように思います。

私にとって、自分の使い方の面倒をみることによい刺激となったのは、
ひとつはアレクサンダーが書いた本を読むこと。自然に意識が変わってきます。
でもこれは、時間がたつとすぐにその緊張感が途切れてしまう方法でした。

一番よかったのは、思考のケアをすること。
焦りや、怒りや悲しみは、自然とカラダの使い方を悪くさせてしまいました。
一瞬の落胆で、カラダの方もガクっとサポートを失います。

「それなら、ポジティブにならなくては・・・!」ということかとそういうわけではなくて、逆にそんなことをしたら過緊張を
生み出して、精神的ストレスでまたがっくり反動がきます。

落ち込まず、張り切らず、「ゆだねる」というのが、私にはとてもよかったです。
なんだかありきたりですが。

アレクサンダーテクニークには「感覚的評価はあてにならない」というのがありますが、
それの拡大解釈といいますか
今起きていることは、一見、残念なことにおもえるけれど・・・そのフィーリングについていかない。
すると、すべての世界が(使い方も)ガラリと変わりました。 ほんとうに。

いまおきていることを信頼してゆだねる。
抵抗しない、がんばらない。焦らない。
結果を想像どおりにしようとしない。

それって、アレクサンダーテクニークの原理にあることです。
結果をコントロールしようとしないことも。

結果をコントロールしないということと、望みをすてることは違います。
望みが変わることのように思えました。
結果を得ようとすることから、まずは、いまのプロセスを大事にしよう、ということに。

実際には、「結果を想像通りにしようとしない」ということは難しかったです。
「治りたい」のは事実で、治りたくないわけない。
けれど、いろいろジタバタしたところで、スポーンと
「もう、だめだ、受け入れよう。それしかできない」
というプロセスがきたようにおもいます。

昔、ある人が「全部捨てたら、うまく言ったの。ホームレスになってもいいやと思って全部任せたら、今住んでいるこの家に出会えたんです」とお話くださった方がいて、
他の人に「あの人はあんな風に言っていたけれど、あなたは、ほしいものを全身全霊で追えって言いますね。どっちなんでしょうね」と聞いたんです。
そしたらその方は、「一緒ですよ。ほしいものを追ったこともなくて、あきらめられるの?全身全霊で追いかけて最後に、ポーンと捨てられるのよ」と、おっしゃっていました。

なんか、あれを思い出しました。
とは言っても、私はそんな執着を手放すという段階ではなく、治りたいなあって思っていますけども、前ほどジタバタしなくなったのかな。

ゆだねるとき、アレクサンダーテクニークの原理では新しい方向性の「意図」に自分をゆだねるわけですが、
今回の私は何にゆだねたんでしょう?
運命かもしれないし、自分の体の生命力というものかもしれないし。
ただ、「自分が把握している自分」には解決不能だと認めたんです。いい意味であきらめた。
それが、「なんとかしよう」という、アレクサンダー用語でいうところのdoingからは離れられたように思います。

なんとかしようとするのをやめて、ゆだね、いまの自分の体を大事にしようとおもったとき、
安心して痛くなることができて、痛みへの戦いや焦りが減ったり、
早く寝よう
とか、
無理して家事するのはやめよう
とか
そういうことを、ストレスなく行うことができました。
いつも100パーセントとはいきませんが。

そうやって、過ごしているうちに、だんだん、痛みが少なくなってきました。
痛みがへると「おお!?もしや!!」と思って、その方向性で生活を続けていきました。

そうやってライフスタイルが変わってきたことは大きなことだと思います。
時間の過ごし方、予定の取り扱い方、望みとのかかわり方も変わりました。
「そうしなくてはいけない」からではなく、自然とそうできるようになったことがとてもよかったです。

アレクサンダーテクニークの本の副題にもありますね、
「姿勢が変わる・からだが変わる・生き方が変わる」って。

それまでは、家事と子育てと自分の身体で必死な感じもあったけれど、
のんびりのんびり、今できないことは、今できないことと気持ちよく切り捨てて、
子供と一緒に早ね早起き、お昼ねたっぷり、時間を気にせず、メールの返信もまあいいや・・・という具合になりました。
(今日は夜更かしさんです)

そうやってすごしていると、キモチがとても平和でうれしかったです。

まだ、携帯やパソコンが普及していない時代
勉強や仕事に追われていない頃
ただ目の前の出来事で楽しく遊んでいた子供のころの時間みたいなものかもしれません。

「心身の使い方」を見直す良い機会になっています。


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