Archive for 11月, 2012

11月 26th, 2012

アレクサンダーテクニークのレッスンは、願い続けるレッスンといえるかも知れない。

アレクサンダーテクニークのレッスンは、望み続けるレッスン、願い続けるレッスンといえるかも知れない。
アレクサンダーテクニークの原理であるミーンズウェアバイも、方向性も、それを意図することは「願う」といってもいいくらい「繊細な意識的メッセージ」を身体に送ることだからだ。
 

エネルギー・目的となる「望み」

アレクサンダーテクニークを行う上で、「望み」とか「目的」は大事なものであると何度か書いてきた。

望みが大事な理由は

・習慣から抜け出すための、モチベーションになるため
・自分のエネルギーを方向付けるため
・『正しさ』を目的にしないため
・どこに向かうかの指標となるため
・アレクサンダーテクニークで得られる「自由」「自立」からは「望み」というキーワードが欠かせないため

ざっくりこんなアイデアが湧く。

ミーンズウェアバイ・方向性・望み

望みとは単にアレクサンダーテクニークを行う目的・モチベーションとしてあるのではなく、アレクサンダーテクニークを実行するときにミーンズウェアバイを大切にすることや、方向性をオーダーすること自体も「望み」と捉えてよいように思う。

それは、上記にあげたように、望みがエネルギーの方向付けと関わっているからでもある。
それに、望みとは外からの「強制」ではなく、内側からの「欲求」としてのエネルギーだから、自分に対するメッセージである方向性やミーンズウェアバイを意図することは「技術的なこと」ではなく「望み」と捉えたほうが、うまくいくと思うからだ。

アレクサンダーテクニークのキーワードのひとつである「ミーンズウェアバイ」は、無意識に目的に猪突猛進しないで、意識的に習慣から抜け出すためにプロセスを大事にすることを指す。

これをするには、行動をするときに「プロセスを大事にしよう」という「望み・願い」を持ち続けることが必要だとも言える。

「方向性」とは、「首はラクに、頭は上へ前に、背中は広く長く」という身体の開放される方向を示し、この方向に開放されながら動くことで、機能的で負担の少ないからだの使い方をすることができる。

この「首はラクに、頭は上へ前に、背中は広く長く」というのも、意識の中でそう意図することであって、そのように身体にメッセージを送ることは「望み・願い」といってもよいように思う。

実際に、方向性を意識するとき「お願いする」という表現をする先生もいる。

私は「考えて」「思って」と言うことが多い。

どちらにしても、頭を上へ引っ張りあげようとしたり、広げようと筋肉的に操作することではなく、「意図する」くらいの繊細なレベルで身体へメッセージを送り、体が反応することが大事。

それは、ふわりと緊張がほどけるような動きであったり、すくすく身体が伸び上がるようなことであったり、ゆるやかに身体が大きく広がるような動きとして現れたりする。

「気をつけ」の号令でピシっと姿勢を直立させようとしたり、ちょっとお澄まし気味にあごを引いてみたりする、「姿勢の操作」とは違う。

「ミーンズウェアバイ」も、「方向性」も”願いで構成されている”と思うと、
アレクサンダーテクニークとは、自分自身のあり方・反応の仕方を「願い続ける」ワークというように思えて、私にはとても気持ちが楽になる。

自分でなんとかしなくては、というような思いプレッシャーのあるものではなく、
「願いつづける」という寛容さとやわらかさ、自分への優しさを感じる。

「コントロール」と「まかせる」

アレクサンダーテクニークは、「自分で自分の面倒を見る」というワークなので、自分に厳しくなってしまうことがあるから、この「願い続けましょう」という姿勢は、どこか「コントロール」から「まかせる」という意識に移りやすくて、よいのではないかな。

実際アレクサンダーテクニークで行っているのは、自分自身の「心身のシステム」に任せられるようになることだとも思っている。
そして、任せられるようになるために、自分の意識を明確に使う操縦者としての、「コントロール」は必要。

コントロールするのは「意識」のほうで「身体」のほうではない・・・というと、ややこしいかな。
意識も身体も一緒だけれども、一緒だからこそ、「意識」を操縦する(方向付ける)ことは、身体のコントロールでもある。

意識が何をメッセージとして身体に送り続けるのかということが大事で、
「無意識に送り続けている弊害のあるメッセージ」から「意識的に建設的なメッセージを送る」ということをするのがアレクサンダーテクニークだ。

その建設的なメッセージを送ろうにも、時には厳しいガチガチのコントロール感でメッセージを送ってしまうこともあり、そうなると、身体もガチガチになっていく。

だから、メッセージの質感というのは、とても大事。

個人的には「願い続ける」と思うと、メッセージを送る負担も減り、メッセージの質感としてもちょうど良いという感じがしている。

アレクサンダーテクニークのレッスンは、意識の操縦者がキリキリと自分を見張りコントロールするのではなく、操縦桿のほどよい握り方、動かし方を練習し続けているようなものですね。

11月 22nd, 2012

自分に寛容になることが、うまくいくコツ

うまくいかないことに関して、寛容になるというのは大事なことだと思う。

アレクサンダーテクニークを学んでいる方の中には、悪い姿勢をしている自分にがっかりしたり、ひどいときには罪悪感すら持つひともいる。

良い姿勢になりたいという願いにフォーカスしすぎると、アレクサンダーテクニークで自由になるはずが、こうやって窮屈な状況になってしまう。

そうすると、身体を上に方向付けることや、開放させるなんて、もっと難しくなる。

できない、と思うと、ますます困難さを増す。現実的に身体のフレキシビリティが阻害されていく。

「しよう!」「しなきゃ!」「できない!」という緊張を手放してほしい。

「手放す」ということは習慣にまみれたまま何にもしなくていいとか、ほっときゃいいという無秩序な状態のことではない。

ルールある調和の中で統一性を保ちながら、備わった機能性・能力を発揮するために、不要な執着や固定概念・緊張要素を手放すということ(・・・と、私は捉えている)。

「手放す」とか「余裕」ということが、あらゆる分野で大事なのは、そのためだよね。

だから、もし「もっとリラックスしなくちゃ」とか「もっと姿勢を正さなきゃ」なんて思いを脅迫概念のごとく持っていたら、それは手放したほうが願いに近づきやすい。

そして良い状態を手に入れたら「もう二度と戻らないように」「この状態をキープしなくては」なんて考えないこと。
考え始めたら要注意。またそういう緊張状態を作り出しているだけかもしれない。

アレクサンダーテクニークのレッスンでは、「出来ない」「出来るようになりたい」「忘れないように」「わかりたい」という、気持ちの中にある緊張に対しても、それを手放すこと・抑制することを学ぶ。

学びの中で、そういった強い思いが心身の自由を妨げるというのは、よくあること。

それを抑制することを学ぶにつれ、自分に対してやさしくできるようになる。

今すぐ出来ないけれど、OK
忘れてしまうけれど、OK
今はわからないけれど、OK

たくさんのOKを自分に与えながら、とにかくプロセスを進めていく。
そういう寛容な態度を実践的に学ぶことは、アレクサンダーテクニークを上手く行うコツだし、
良い姿勢をするコツ、呼吸をラクにするコツ、発声を良くするコツ、コミュニケーションを円滑にするコツ、病気と付き合うコツ・・・のように思います。

11月 22nd, 2012

ぐちゃっとつぶれる悪い姿勢

アレクサンダーテクニークを学んでいたって「ぐちゃ」っとつぶれたい。

つぶれたいときもあるし、つぶれるし。

つぶれることに、罪悪感を抱かずに、堂々とぐちゃっとなれることがうれしい。

ああ、わたしは自由なんだなー、と思える。

首をラクに、頭を上へ前へ、背中が長く広く を、やる自由も持っているし、

ぐちゃっとなって、悪い姿勢をする自由も持っている。

選択という自由。

わかっていて、やっている、という自由。

それを許している、という自由。

ぐちゃっとつぶれるのは、習慣的な行為ではあるけれど、無意識的習慣を行っているのとは違うという開放感。

言い訳してるようでもあり、
すっごい本心でもある。

11月 20th, 2012

道徳とアレクサンダーテクニーク

アレクサンダーさんの言葉

反応が悪くなってしまうことは、欠点や、いわゆる”精神的”・”道徳的(モラル)”な異常、不具合、病気となって現れてくるので
それらがあること自体、人間有機体に間違った使い方と機能が存在することを示しています。(康弘訳)

この文章が述べている、「使い方を変えることと、道徳的な反応」との関係について、考えてしまう。

道徳・モラルって、文化や教育と関連しているように思うので、必ずしも使い方と関連しているとは、私は思えないのだけれども……。

使い方が良いと、”道徳的な人”になれるのだろうか?
道徳的態度というものは、文化や教育とは関係なく、私たちが本来もっている建設的選択・機能なんだろうか。

私のアレクサンダーテクニークの経験の上では、確かに、アレクサンダーテクニークを使って反応をするということは、
意識的に、建設的に、広い視野で落ち着いて判断し、自分の中でベストと思われる行動をとりやすくはなると思う。
でも、それが道徳的かどうかは「?」って感じ。

そもそも、モラルに反して行動すること事態、普通の人はそんなに多いわけではないと思うし。

アレクサンダーテクニークを使うことで、道徳的な反応、そうでない反応というもが選択肢の中にあったとき、「どっちを選ぼうか?」という選択できる自由さは増えるような気がする。

そういう意味では、習慣的に・盲目的に・自滅的に道徳に反した行為をするというのとは、ちょっとちがうのかもしれない。

アレクサンダーが言っているこの文章を読むと、時々ちょっと極端なんじゃないかなあ?と思うのは、まだ私の学びが足りないからなのかな?

11月 15th, 2012

洗濯物を干すときのパンパンをさわやかに

洗濯物を干すときに、パンパンと振ってしわを伸ばす。

頭が上に、背中を長く広く・・・と思いながらやると、いつもと違うパンパンになる。

「さわやかな朝」というものを演出しているかのような
頭上に、青空が広がり、気持ちよい太陽がサンサンと輝いているような
家族を支えるお母さんであるような

そんな感じ。

この違いを感じて、いつもは、パンパンするときに身体を反らせがちだったことに気づく。

腕を上げる動きって、背中を無駄に反らせやすい。
高いものを取るとか、物を取るとか。
私はひけないけれど、ピアノを弾く人が両腕を上げる瞬間に背中を同時に反らせる姿も良く見る。

洗濯を干すパンパンのときに、自分の使い方を面倒みるだけで、さわやかさや健全さを感じることができるなんて、「洗濯ものを干す」という行為の中に、何かそういった質を、私はイメージとして関連付けているのだろうな。


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