Archive for 2月, 2014

2月 19th, 2014

抑制の練習機会を作る

日常は、刺激と反応の連続。

アレクサンダーテクニークで「抑制」を習っても、日常で使うことが難しかったり忘れてしまうのは、日常には刺激が多すぎて抑制する機会を逃しているからかもしれません。

刺激はなんでもいいから、抑制→方向性のプロセスを練習するといいと思う。

私は今日、エスカレーターに乗る時に抑制をしました。
エスカレーター前で階段を見送りながら、すぐに反応しないことを選び、
首が自由に、頭がうえに、胴体が広く長くと自分にメッセージをおくり、
そしてやっと一歩前にでてエスカレーターに乗る。

降りる時は、乗る時の様に立ち止まっていられない。
乗っている時に方向性を意図し続けることが、降りるための「自分の使い方」の準備でもある。

方向性は考え続けるというのが、大事なポイントです。

動きの最中にも、考え続ける。

それが、はじめに抑制した習慣を、抑制しつづけることにつながります

エスカレーターでも、トイレでも、お風呂で身体をあらうことでも、何でもいいので、日常の中で抑制の練習をする機会を意図的につくるといいと思います。

2月 12th, 2014

エンドゲイニングをやめ、習慣を抑制するには

前回の投稿の続きになります。

自分のことをよくわかっているけれど、変えられないというケースはたくさんあります。
私がそうだったように、「わかっちゃいるけど、習慣が抑制されていない」っていう状況。

今回、望みと不安の板挟み状態の私は、
「わかっているけどやめられない」
から、
「やめられた」
に、どうやって移行したのでしょうか…。

いったいどうやって「習慣が抑制されたのか」?と自分を振り返ると
「毎回、毎瞬、何を体験するのかはわからない」ということを思い出し、決定的な自分のミスを痛感した瞬間、抑制が働き、新しい方向性(やり方)に移行できたのだと思います。

この”痛感”っていうのがキーで、エンドゲイニングとミーンズウェアバイに関係している部分。

大事なとこなので、エンドゲイニングとミンーズウェアバイについて説明します。

【エンドゲイニング】
 目的を達成しようと集中しすぎて、自分に悪い影響が出ていてもかまわず突っ走るやり方。直接的・盲目的に目的に到達しようとするやり方

【ミーンズウェアバイ】
 エンドゲイニングとは逆。不要な習慣を抑制し、自分の使い方を改善し、その結果、機能的になった心身で目的達成のためのプランを遂行することができる。自分の使い方を面倒見ているため、悪い影響を作らずにすむ。

アレクサンダーテクニークの学びは、エンドゲイニングからミーンズウェアバイにやり方を変えていくというものです。

そして、このミーンズウェアバイというのは、「エンドゲイニング」じゃ、うまくいかない!!っていう深い理解があったうえに成り立つものだと、アレクサンダーは書いていたと思う。

薄っぺらい「わかっているけどー…」ってレベルじゃないんですよね。
「やばい!まずい!このやり方はうまくいかない!!」って、本当に実感をともなっている。

最初、私が「満足がほしいという思いと、不安との間でうまくいかないわ」って状況を把握したときは「うんうん、わかった。私ってこんな状態なのね」みたいに理解はあるけど「じゃあ、どうやって不安を掻き消せばいいなー」「わかったからって、この気分は変わらないわー」なんて意識だったかもしれない。
そうやって、理解してもなお、感覚にしがみついていた

これが、「まずい!このやり方はうまくいかない」とはっきり理解して思い出せたのは、レッスンの賜物。
その実体験を何度も繰り返して知っているから。

「感覚を目的にしてたら、根本的になにも変わらない!」と気づき、感覚にしがみつこうとしていた習慣を抑制することができた….のだと思う。

アレクサンダーを学んでいれば、エンドゲイニングがうまくいかないってことは、みんなよく知っている。
でも、わかっていてもエンドゲイニングになってしまうのが「習慣」という強い力。

刺激や習慣が強いほど、その強い力に対抗するために「本当に、このやり方はうまくいかない」と実感していることが必要で、その力を育てていくのは、レッスンをコツコツと積み重ねるしかないのだろうと思う。

2月 12th, 2014

今を体験することしかできないということ

学びの習慣について、新しい理解があった。
アレクサンダーテクニークにとても関係しているので、シェアしたいと思います。

私は、アレクサンダーが書いた著作を学ぶ「ブックコース」という通信教育で、モデレーターをしています。

参加者に課題を提出したり回答を読んだりするので、本の内容をよく理解するため、自分でも繰り返し勉強しています。
最近は、学生時代のように本の内容をまとめて「ノート」のようなものを作る作業をしています。

この作業をすると、するりと読み流しているところもじっくり読めるし、何度も形を変えながら繰り返し繰り返しアレクサンダーが主張していることもよく理解できる。
本を読みなおすよりも、自分が編集しなおしたこのノートを見る方が、本の内容を振り返りやすいのもいい。
アレクサンダーテクニークというものをより納得しながら学ぶことができるので、実際のレッスンをする上でも、とても勉強になります。

と、こんな満足感を体験してホクホクしていたのが、落とし穴でした!!

私たちは、とても「感覚」に弱いのです。
良い体験をすると、「またそれを体験したい!」という欲がでます

で、ノート作りをしはじめたころには無かった目的…「良い体験をしたいがために、ノートをまとめる」という目的意識が加わってしまっていました…。
そうすると、この面倒な作業をしていくうえで「まだ終わらない」「終わらないから、あのすがすがしい満足感が得られない」なんていう、当初は無かった不満が心の片隅に生まれてきて、学びのプロセスを少し邪魔し始めたんです。

「○日までに、全部ノートにまとめよう」なんて目標を掲げて、実際それができなかったりすると「満足の体験」と「うまくいかなかった体験」の板挟みに…。

それに気づいたのは、今朝「次回の課題の範囲をノートにまとめよう」と思ったとき、なんだかやる気がしなくて「ああーーー、やったほうがいいってわかっているのに…面倒だな…」と億劫に感じ、このテーマでレッスンをしてみようと決めたことがきっかけ。
自分で自分にレッスンできるのが、アレクサンダーテクニークのいいところですね。

「面倒だな」と感じたときに、「首が自由に…」と思っても、やる気はでず…身体も自由にはならず…。
変化がないってことは、私を邪魔している習慣が抑制されていないってこと。

「はて、私は何をしているのだろう?」
“自分の使い方”の一部である思考を観察すると、私は「満足感」を望んでいるということ、同時に「早く終わらせたい」「時間内に終わらないかも」という不安な気持ちも抱えていることがすぐにわかりました。

「満足の体験」と「うまくいかなかった体験」の狭間で自分がやるべきことにエネルギーを向けきれず、プロセスを進められない状況が億劫さとして表れていたということです。

そんな自分の状況を理解しましたが、やる気がでるとか、身体が自由になるとか、変化が直接起こることもなく、気分は億劫なまま。

「理由がわかったところでダメかー…さて、これがアレクサンダーテクニークのレッスンだったら、次は…」と考えたとき、自分のなかから答えがやってきました。

「今日、私がそのやり方(ノートづくり)でどれだけ学ぶかは、なんの保証もない。」

そうだった!!
私は、満足感をの望みつつ、うまくいかない体験も想像していたけれど、アレクサンダーテクニークのレッスンで学んだのは、「毎回、毎瞬、何を体験するのかはわからない」ということだった。
「感覚」を求めてプロセスを進めることは、建設的ではないということだった。
焦る気持ちは「エンドゲイニング(目的に集中しすぎ)」で自分の使い方に悪い影響をもたらすということだった。

「感覚」は「体験」の後にやってくるもので、しかも相対的なものだから、どんな感覚を得るかなんて、やってみないとわからない。
「過去」は「過去」。終わった体験。
期待したり心配している「未来」はわかるはずもないこと。

体験というものは、今、それを確かめるということでしか知ることができない
「めんどくさいなー」なんて思った瞬間に、過去を参考にしてやってもいない「今の体験を想像」していただけだった。
「終わらないかもーー」なんていう思いは「想像からくる」ただの「心配」で、ちっともプロセスに貢献していなかった。
で、その「想像」に、私は肩の荷を重くして、やるべきことを苦痛にしていた。

「今」を体験しながらプロセスを進めるのか
「過去の体験を再現しようとして」それをするのか
「未来の体験を空想し疑似体験しながら」それをするのか

今、自分が「いつを体験」しているのかを知ったなら、
それが建設的かどうか理解できたなら、エネルギーがちゃんとやるべきことに向かうようになった。

「感覚的体験の保証はなにもない。感覚を求めずに、得たい結果の為の建設的プロセス…毎瞬毎瞬を大事にすること」というのがアレクサンダーテクニークだけれど、そんな当たり前のことも「感覚を得たい」という習慣の前ではあっと言う間に吹き飛んでしまう。

感覚を求めることって、今を失ってしまうことともつながっていますね。

感覚の誘惑は、とても強烈だと、再確認しました。

2月 9th, 2014

何かする時に思い出すと役に立つ言葉

アレクサンダーテクニークを習い始めのころ、
今ほどこのテクニークのことをシンプルだとはとても思えず、
とても難しいと思っていたし、複雑だと思っていた。

だから、トレーニングスクールで先生たちが何度も繰り返してくれるキーフレーズみたいなものは、とても自分の役にたったと思う。

その中で、当時のお気に入りというか何度も思い出しては、役にたった言葉は、「アイアム ナンバーワン」

ある先生が、自分の胸に手をあて、とても大事なことを言うように
「アイアム ナンバーワン」といい、
そして、少し笑いながら「ユーアー ナンバーツー」と、言った。

「You are NO.2」と言われてちょっと笑いながら、すごくすっきりさせてもらったのを覚えている。

「私がすごくて、あなたは私の次よ」という意味ではなく「まず、何をするにも、自分を一番最初に面倒を見る」という意味合いで使った言葉。
先生は、何度も「”アイアム ナンバーワン” よ」と、強調してくれた。

私が通っていたのは、アレクサンダーテクニークの教師養成スクールだったので、アレクサンダー教師が生徒にレッスンをするということについての指導がある。
「教える」となると、やりがちなのは、相手に意識が集中してしまい、教える自分の面倒をみることがおろそかになるということ。相手に教えようと必死になり、先生に余裕がなくなってくるという状況だ。

スクールでは、”そうではなくまず第一に、自分の面倒を見ること=自分の使い方を大切にすること”だと学ぶ。

特に教師と生徒という関係性に限らなくても、あらゆる自分と他者・状況との関係性との関わりの中においていえることで、それを学ぶ時に、この「アイアム ナンバーワン」というフレーズは、とてもインパクトがあり簡潔で、私のお気に入りになった。

そもそも、人や物事の優先順位について、私はもともと混乱していた。
子供のころ
「”使った人”がおもちゃをかたずけなさい」と言われ、そのルールを守っていると「”お姉さん”なのだから、あなたがかたずけなさい」と言われる。
誰かのお手伝いをしていると、「まずは、自分のことをしてから、人のお手伝いをしなさい」と言われ「そうか、自分のことを終えずに、人のお手伝いをしてはいけないのか」と理解すると、こんどは「自分のことばかりではなく、お友達のことも助けてあげなさい」と注意される。
まだ幼くて、大人のいうことを「そうか」と受け入れることしかできなかった私には、親や先生の言っていることに統一性を見つけられず、とても混乱した。

もちろん、大人になれば、そこらへんは臨機応変に…と思えるようになるけれど、
臨機応変という言葉のなかには、正解はなく安心感がなかったように思う。

でも、アレクサンダーテクニークの先生が教えてくれた「アイアム ナンバーワン」という立ち位置には、とても安心感があった。
その意味するものの背景には、それがなぜ大切なのかという体験的証明があったから。

それは、まず、何をするにも、誰とどう関わろうとも、
まずは、自分の「使い方」をケアする。

首が自由になり、頭が上にいき、身体が空間に対して広がり、機能性が増すことを許す。

それによって、私はもっとバランスを取り戻し、他者や状況との関わりの中で反応の選択がしやすい状況となる。

アレクサンダーテクニークの先生たちに安心感がもてたのは、先生たちが自分に余裕があり、私たち生徒に対して寛容さがあり、待つということが出来、それこそ臨機応変に対応してくれたからだと思う。そして自分が出来ないことや、知らないことに対してとても正直だった。
自分が完璧ではないという姿も見せてくれた。
だから、とても身近に感じたし、信頼もできた。

それは「自分の使い方」をちゃんと面倒見ていたことの結果だと思う。

実際には、「アイ アム ナンバーワン」というものがどれほど大事か時間をかけて何度も何度も失敗を繰り返しながら体験するし、わかっていてもそう出来ないこともたくさんあり、今もまだ練習中だけれど、何かする時「あ!そうだ」と思い出すのに、「アイ アム ナンバーワン」は、一瞬で言えるシンプルな言葉でいいな、と思う。