Archive for ‘フリートーク’

2月 9th, 2014

何かする時に思い出すと役に立つ言葉

アレクサンダーテクニークを習い始めのころ、
今ほどこのテクニークのことをシンプルだとはとても思えず、
とても難しいと思っていたし、複雑だと思っていた。

だから、トレーニングスクールで先生たちが何度も繰り返してくれるキーフレーズみたいなものは、とても自分の役にたったと思う。

その中で、当時のお気に入りというか何度も思い出しては、役にたった言葉は、「アイアム ナンバーワン」

ある先生が、自分の胸に手をあて、とても大事なことを言うように
「アイアム ナンバーワン」といい、
そして、少し笑いながら「ユーアー ナンバーツー」と、言った。

「You are NO.2」と言われてちょっと笑いながら、すごくすっきりさせてもらったのを覚えている。

「私がすごくて、あなたは私の次よ」という意味ではなく「まず、何をするにも、自分を一番最初に面倒を見る」という意味合いで使った言葉。
先生は、何度も「”アイアム ナンバーワン” よ」と、強調してくれた。

私が通っていたのは、アレクサンダーテクニークの教師養成スクールだったので、アレクサンダー教師が生徒にレッスンをするということについての指導がある。
「教える」となると、やりがちなのは、相手に意識が集中してしまい、教える自分の面倒をみることがおろそかになるということ。相手に教えようと必死になり、先生に余裕がなくなってくるという状況だ。

スクールでは、”そうではなくまず第一に、自分の面倒を見ること=自分の使い方を大切にすること”だと学ぶ。

特に教師と生徒という関係性に限らなくても、あらゆる自分と他者・状況との関係性との関わりの中においていえることで、それを学ぶ時に、この「アイアム ナンバーワン」というフレーズは、とてもインパクトがあり簡潔で、私のお気に入りになった。

そもそも、人や物事の優先順位について、私はもともと混乱していた。
子供のころ
「”使った人”がおもちゃをかたずけなさい」と言われ、そのルールを守っていると「”お姉さん”なのだから、あなたがかたずけなさい」と言われる。
誰かのお手伝いをしていると、「まずは、自分のことをしてから、人のお手伝いをしなさい」と言われ「そうか、自分のことを終えずに、人のお手伝いをしてはいけないのか」と理解すると、こんどは「自分のことばかりではなく、お友達のことも助けてあげなさい」と注意される。
まだ幼くて、大人のいうことを「そうか」と受け入れることしかできなかった私には、親や先生の言っていることに統一性を見つけられず、とても混乱した。

もちろん、大人になれば、そこらへんは臨機応変に…と思えるようになるけれど、
臨機応変という言葉のなかには、正解はなく安心感がなかったように思う。

でも、アレクサンダーテクニークの先生が教えてくれた「アイアム ナンバーワン」という立ち位置には、とても安心感があった。
その意味するものの背景には、それがなぜ大切なのかという体験的証明があったから。

それは、まず、何をするにも、誰とどう関わろうとも、
まずは、自分の「使い方」をケアする。

首が自由になり、頭が上にいき、身体が空間に対して広がり、機能性が増すことを許す。

それによって、私はもっとバランスを取り戻し、他者や状況との関わりの中で反応の選択がしやすい状況となる。

アレクサンダーテクニークの先生たちに安心感がもてたのは、先生たちが自分に余裕があり、私たち生徒に対して寛容さがあり、待つということが出来、それこそ臨機応変に対応してくれたからだと思う。そして自分が出来ないことや、知らないことに対してとても正直だった。
自分が完璧ではないという姿も見せてくれた。
だから、とても身近に感じたし、信頼もできた。

それは「自分の使い方」をちゃんと面倒見ていたことの結果だと思う。

実際には、「アイ アム ナンバーワン」というものがどれほど大事か時間をかけて何度も何度も失敗を繰り返しながら体験するし、わかっていてもそう出来ないこともたくさんあり、今もまだ練習中だけれど、何かする時「あ!そうだ」と思い出すのに、「アイ アム ナンバーワン」は、一瞬で言えるシンプルな言葉でいいな、と思う。

9月 22nd, 2013

自分の活動や役割を分断して意識してしまう

アレクサンダーテクニークというベースの流れの中で、
一日の活動をしていきたい。

私は、自分の活動を、自分の中で「分断」してしまうことがよくある。
「料理」「洗濯」「かたずけ」「子供と買い物」「一人で買い物」などなど、例をあげるときりがない。
そういう意識上の切り分けが、なんだか1日を大変なものにしている気がするのです。
1個づつ、やることリストの付箋を消化していくような。

ひとつひとつの活動が、いちいち、意識のなかで分断されて「はあ、終わった、次はコレ」みたいな思考が挟まれたりする。

アレクサンダー的な言い方をすれば、前の活動と、次の活動の間で、いったん”縮まる”。
いらない”緊張”を付け加える。
そんな感じ。

やることだけでなく「役割」という側面でも、自分を「分断」する。
「お母さん」「主婦」「アレクサンダー教師」「●●ちゃんママ」「お客さん」など・・・・。
で、その役割に、少々いらない緊張を付け加えたり、脱力しすぎたり、なんだか自分の「トーン」をちゃんと面倒見れていない。

で、無駄に疲れているような??気もする。

それは単に、アレクサンダーテクニークをちゃんと使っていない、という言い方で、済ませられるような気がするのです。

だから、完全には無理だけれども、もう少し毎日を丁寧に「分断」せず、
せっかくアレクサンダーテクニークという基盤があるのだから、それを大事に日々の活動をしていきたいな。

もしかしたら、それができれば同時に、心配や不満などの無駄なことに使うエネルギーが減り、自分を「疲れたー」にさせる方向性が少なくなってくれるのではないかと、期待もしています。

アレクサンダー実践のonとoffを少なくして、できるだけアレクサンダーテクニークのベース上で生活した結果はどんな感じか・・・このブログで報告できればと思います。
(と、宣言して、自分がちゃんとアレクサンダーテクニークを使い続けるということを実行できるよう、自分で自分に後押し・・・)

8月 9th, 2013

わからなくても大丈夫

習慣を減らす意識的な学び

アレクサンダーテクニークの学びは、今まで体験してきた「何かを学ぶ方法」と違うかもしれません。
このワークは既に身につけてしまった自分に不調和をもたらすを「減らす」ためのワークであり、
がんばって詰め込む・理解するという努力型のレッスンではありません。

また、ひたすらからだを動かして鍛える・整えるトレーニングとも違います。
「習慣から離れる」という学びは、とても意識を使うレッスンです。
 

わからなくても大丈夫

既に身についた「上手く行かない自分の使い方」という習慣を減らすために「すること」はありますが、
それはとても繊細で時に「何もしていない」ように感じることもありますし、
いつもとは違うので「間違ったことをしている」ように感じることもあります。

「分かっているかどうか実感したい」「出来ているかどうか気になる」という気持ちになると思いますが、それはアレクサンダーテクニークの学びを邪魔することがあります。
それは、その”思い”を持ったとき、身体や思考が必要以上に緊張してしまうことがあるからです。
不要な緊張を減らしたくてレッスンをしているのに、
「分かりたい」という思いが緊張を作ってしまうことがあるんですね。

教師は、一緒にレッスンしているとき「分からない」と生徒さんに告げられた場合、
理解してもらえるように説明することもあれば、
「わからなくても大丈夫よ。うまくいってる、そのままやっていきましょう」で、終わらすこともあります。
起きていることや、その人を見ながら判断してレッスンを進めているからです。

私自身、学び始めのころ先生にこう聞いたことがあります。
「今、私に何が起きたんですか?私は何をしていたんですか?どうやってこの状態になったのか全然わかりません」
すると先生は
「・・・まず、きみは『わかりたい』という欲望を減らさないとね」とおっしゃいました。
私はそう言われて愕然としました。
今まで勉強やトレーニングという種類のもので、そんなこと言われたことがなかったからです。
分からないまま放置させられて疑問も解決せずモヤモヤとしましたが、
「わかりたいという欲望を手放す」という新しい課題をもらったように感じました。
そして、むやみに「わかろう!今すぐ理解したい!」という状況から、
だんだんと「わからない」ということも含めた体験というものを広く尊重できるようにもなったように感じます。

「わからなくても大丈夫」といわれて不安やモヤモヤが起こることもあるかもしれませんが
「わからないけれど、ちゃんとうまく行っているんだな」と安心してください。
安心できないかもしれませんが「分からなくても大丈夫」ということに慣れていく練習だと思ってください。

起きていることを充分に理解することが学びになることもあれば、
起きていること理解できなくても、今のままやっていくことが学びになることもあります。
 

頭の理解 身体の理解

アレクサンダーテクニークの学び・変化のプロセスは、本人の実感をともなっていないこともあります。
もちろん実感がともなうと満足感も増しますし、「頭」の理解も増すのですが・・・
「身体」の理解は必ずしも「頭」の理解をともなっていないこともあるのです。

「全然わかりません。何か変わったのでしょうか?」と言っている人の身体が、
とても繊細に敏感に反応しているということはよくあります。
「身体がすごくラクだけど、なんででしょう?なにもしていないのだけど?」といいつつ、
ちゃんと自分で自分に変化を作り出している人もいます。

アレクサンダーテクニークの「習慣から離れる」というプロセスはとても意識的な行為なのですが、
実感として脳みそで翻訳されないことがあるみたいです。
新しい体験なので、ちょっと分析不可能・情報の取りこぼしみたいな感じになるのでしょうか?

自分にメッセージをおくるということ
自分の身体が自分のメッセージに反応するということ
それがどういうことなのか、レッスンが進んでいくとだんだんわかるのかもしれません。

そして同時に「わからなくても大丈夫」という安心感も増えてくるように思います。
 

感覚と現実のギャップ

変化を感じなくても大丈夫というだけでなく、「変な感じ」がしても大丈夫ということも大事です。
もちろん、すべての場合が大丈夫というわけではないので、レッスン中に感じた違和感は教師に伝えてください。

習慣と新しいやり方とのギャップが引き起こす「へんな感じ」は、
アレクサンダーテクニークではよくあることです。
今までの普通だと感じていた「不要な習慣がプラスされていたやり方」が
「より機能的で自由なやり方」に変わったとき、
ギャップとして「変な感じ」「上手く行っていない感じ」と翻訳されてしまうことがあるのです。

自分ではなんだか前のめりに立っている感じがするけれど、先生やグループレッスンの仲間から
「さっきよりずっとバランスよくに立っているいるように見える」と言われたり、
アレクサンダーテクニークを使って歌ってみると
「全然感情がこもっているように歌えない」と思っているのに
「さっきよりずっと歌詞の意味が伝わってきた」など、
自分で感じていることとは全然違う感想を聞くこともあります。

客観的なフィードバックも参考にしつつ
「変化を感じないこともあるんだな、それでもいいんだな・・・」とか
「私が感じたことと、実際に起きていることは違うのかも・・」など、
自分の感じ方の枠を超えて、新しい体験や学びを深めていけるとよいと思います。

もちろん、変な感じ、不快な感覚には、
本当に身体に負担がかかっている場合もあるかもしれません。

特に、怪我をしている方や、身体の故障を抱えている方などは
「変な感じだけど、これでもいいのよね」と黙っていることはせず、
その都度先生に自分の感じていることを話してください。

それは、上手くいっていても、上手くいってなくても「感じていること」は先生に伝えて欲しいのです。

感覚は、レッスンを受ける側の生徒さんだけが持っている貴重な情報で、
その情報をシェアしていただくことで、
先生は生徒さんの状況を踏まえながらレッスンを進めていくことができます。
もしくは、レッスンを中断することが必要な場合もあります。
ですので、自分の思っていることは、遠慮なく伝えていきましょう。
 

8月 6th, 2013

スリッパを履くだけで幸せ。 動きの連続性

私はよく、レッスンで生徒さんに伝えたことを自分自身に言って、自分にレッスンをしたりする。

今朝、自分の言葉を思い出しながら布団から起き上がってスリッパを履いたら、まるで違う日常の始まりのように感じた。

朝、布団の中で、レッスンで伝えたかったことを思い出していた。
寝ている姿勢から起き上がるときの、動きの連続性について。

「顔が横を向いていきます・・そうそう・・・・首が動くでしょう。
今、とてもスムーズに頭が振り向くことができた。
頭が横に振り向くように動いて、その動きに首が順番に続いていって回転して、ここまで顔を横に向けることができた。

でも、今、首の下の身体は動かずにそのままでしょう。
動きがの連続が、首のところで止まっているのね。そういうこともできますよね。
動きの連続を、途中で止めることもできる。
それに、今は無理に止めているわけでもないし、別に良いとか悪いとかでもないのね。

そういうこともできるんだけど、これから起き上がろうとするときには、身体全部がこの頭の動きに続いていきたいんですね。
そのためには、まず動く前に、これから動くんだっていう意識上のメッセージが身体全体に届いていて欲しいんです。
動く前にね。

じゃあ、今度は、身体全体が頭の動きに続いていってみよう。

頭(顔)が横を向いていって、首が順番にその続いて動いて・・・もっと顔が横を向こうとすると・・・そうそう!
そうすると、もう身体のほうでバランスを取るために手や足が動き始めないといけない。
でも、動く準備が出来ていたから、どうやって動かすかということを考えなくても、身体全部が勝手に連続性を保ちながらバランスよく仰向けから横に向きを変えることができたよね。

頭が動いて、身体全部がその動きに連続的についていって動けるんだよね。 すごく軽やかでスムーズだったね。」

その言葉を布団の上で思い出して、起き上がってみようと試してみる。
なめらかに、ころりと身体が転がって、一端、つま先を立てた正座の形になった。そこから静かに立ち上がる。
なんだか武道をしているようなしゃっきり感と、自分の周りの空気が広く柔らかく感じられるふんわり感。

立ち上がるときには、頭が背骨を上方へと導いて、四肢はそれに続き、2本の足で立つ。
「立っている」という頑張りがなくて、足の裏が柔らかく床に接して次の動きの準備が既に出来ているように感じられる。

頭を思い出し、歩いてみる。
水の中を歩いているときのように、身体全体と周辺をゆったりと感じられる。
朝を、こんなふうにやさしくはじめらるなんてすばらしい。

そこから、スリッパに足を入れようとしたとき「ああ~、いつも自分の身体をを押しつぶしながらスリッパを履いていたんだ!」と気づいた。
今朝は、上からふんわりと下を優しく眺め、足先の指が柔らかいまま、スリッパの中に足をすべりこますことができて、ただただ「うわあ・・・」と感激した。

スリッパを履くだけで、こんなに幸せになれるなんて~。

わたし達の動きには、連続性がある。

魚・蛇などの背骨があり手足がない生き物を見てみると分かりやすいし、しなやかな猫の動き、躍動感ある馬の走り、すばらしいアスリートやダンサー達の動きからもそれは分かる。

これは、身体の構造と、その使い方から生まれてくる動きなので、自分の動きを阻害する習慣を減らしてあげれば、もともと持っていたシステムは美しい動きとなって現れてきてくれる。

それで、こうやって、幸せな気分や心身の快適さを一緒にくれるのだから、”習慣を減らす”という練習は地味だけれどもほんと奥深い。

ちょっと気を抜くと、いつでも習慣にもどってしまうのだけど、それでもちょっと思い出せばまた習慣から抜け出ていける安心感。

アレクサンダーテクニークには、出来るとか出来ないとか、そういう枠がしっくりこない。
「思い出す」とか「忘れる」という方がしっくりきます。

ほんとそうだ!

出来たか出来ないかを気にするのでなくて、思い出したかどうか、使ったかどうかを大事にしていればいいんだよねー。

6月 24th, 2013

技術の先の、自然さ

最近は、アレクサンダーテクニーク を使うことについて、大きな変化の時期を迎えているような気がしています。
もっと欲張りになったのかもしれない。
「アレクサンダーテクニークじゃ、それは手に入らない」と自分を甘やかしてごまかしていたようなことを「いや、そうじゃない」って、受け入れるような気持ちになったのかもしれない。

私が欲しいと思っているものは、自分でも曖昧で言葉にするのが難しいけれど、それは現在の「自分の使い方」では得られないなあと思う。

アレクサンダーテクニークをちゃんとやる、イコール、自分の使い方について、きちんと面倒を見る・・・それは、甘えていては出来ない・・・と実感中。今更だけど。

自分の面倒をきちんと見ることは、エンドゲイニングに陥らず丁寧に自身と向き合い、身体と精神の調和を大事にしながら、その都度自分の望んでいること・選択をし続けていくこと。

アレクサンダーテクニークを学んだおかげで身体に無理をするような動きが原因となる辛さ・痛みからはラクになれた。本当に。
学び始めた頃は「足の裏に体重を感じない!」
「体重が中心で支えられている」
「身体がなくなったみたいに呼吸がラク」
などといった ”特別の状態” に感じられていたものが、今では普通の状態になり(なので、あの当時の感激もすっかり薄まり)そういう意味では、人生が変わったんだなと思う。

私の「普通」が変わり、同じコトをしていても、違う体験・違う質となって過ごす毎日になった。

「普通」が変わるって、とてもすごいこと!

なんだかここに来て、また「普通」を変えていかなくては、という気持ちがやってきた。

今、受けているアレクサンダーテクニークによる恩恵の、そのまた一歩先にいくぞ、っていう感じ。

学びを続けていけば、変わり続けていくことにはなるけれど、その時々「よいしょ!」っていう時期があるようで、今、またその時なのかな。

以前も感じたことがあるけれど、私の使い方が変わるって、自分のアイデンティティとつながっている部分(習慣)に大きな変化が起きるときは自分が違う人になってしまうような、ちょっとした恐怖がある。「そんな自分、嫌だな」と抵抗感を持ったりもする。そんな人(そんな反応をする人)になっても、大丈夫なのかしら?という不安もある。

未知なる部分なので、どの様に変わっていくのかはわからないけれど、すこうしずつ、甘えた部分の手綱を締めて習慣から「選択」の世界に行くことを練習していこうと思っています。

わたしにとって、この「選択」というのは、自分がコントロールするという部分から(自分がコントロールしたい!!ていう欲求は、私にとってすごい悪習だったりする)”もっと任せる・もっと信頼する”ということに関してのもので、そういう質が増えていったら、なんだか自分じゃないみたい・・・と思うけれど、ここは避けて通れないなあ・・・と、今感じている最中。

アレクサンダーテクニークというものを、身体だけにフォーカスしてしまうと、身体技術みたいなものになってしまう。
そういう一面もあるのだと思うけれど、それはやっぱり一面で、”技術”の先にあるのは、もっと自然で、もっとコントロールの無い世界、まるで技術がないかの様な世界ではないかと思う。
(もちろん、その背後には、ある種のスキルがあるのだけれど)

『自分』の使い方に関するものが、アレクサンダーテクニークなんだから、日常生活の小さなことも大きすぎることも、心身両面でちゃんと自分の面倒をみながら、自分のバランスをとって一歩一歩進んでいくっていうことを、ちゃんとやらなきゃなあ・・・て、やっと覚悟が決まったというか、決まりつつあるというか・・・。

私はパフォーマーでもないし、身体に怪我や痛みがあるわけでもない(持病はあるけど)、緊張癖に悩んでいるわけでもなく、誰かを介護したりサポートするのに身体を酷使しているわけでもない。
ほんとうに、日常を、丁寧に生きるっていうことが、私のするアレクサンダーテクニークなんだなあと思うし、そういえば、それがしたかったんだ!と今はっきり認識できた。

「ここをこえなきゃなあ」って言うことが、「あ、そうだ、あそこに行きたかったんだ!」って気づけたこと、良かったな。

ダラダラとでも、気持ちを文字に起こしてみるものだな~。