痛い身体/自分へのオーダー

アレクサンダーの原理の
「首が楽になって、頭が前へ上へ行って、身体が広く長くなる」
とか
「頭が動いて身体全体がそれについてくる」
とか

おきまりの「方向性のオーダー」を思ってみても、「うーん、うまくいかない」という経験はだれにでもあるはず。

今日は、こんなことを思ってもらったら、うまくいったよ
という紹介です。

その前に、昔話から。
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昔、体中の筋肉が炎症を起こして大変だったことがありました。
痛み止めがきれると、起き上がるのも困難。
ちょっと動くと(筋肉が動くわけですから)炎症を起こしている筋肉が痛い。

それも、腰だけ足だけというわけではなく、胴体も、足も、手も痛い。
痛くないのは首から上だけなので(でも、のどは真っ赤)頭をジタバタしながら「わー!動きあがれない!!」と、もがく有様でした。

しかたがないので我慢。
「イタタタタ!」と思いながらも、痛む身体にさらに力を込めて(不必要に)、息をとめながら、「えいや!」とゼーハーしつつ起き上がったり、ガチガチ、ぎくしゃく歩いたり。
痛いので、首も身体もちぢこまる。

でも、ちょっと、まてよと。
私はアレクサンダーテクニークを知っているんだぞと、思い直してみた。

まて。まて。ちょっと、まて。
できるだけ、がんばらず、できるだけ、痛みを与えず(筋力を使わず)に動こう。
まずは、立っているだけ・・・一歩、一歩・・・と、自分の動きに気づきながら歩く。

そうすると、ぎゅっ!と身体を縮めて動くことから、
私の意識は身体全体に広がり、痛みにちぢこまっていた身体は物理的にも広がり、
一瞬一瞬を大事にしながら動く方法へと、動きのプロセスは変わった。

(痛いのが身体の一部だと、他の健康な部分に無理をさせることで、身体をかばったりしますよね。
私の場合、(幸い??)痛いのが身体の一部ではなく、全体だったので、身体全体を思う事はやりやすかった。)

すると、痛みがなくなるわけではないけれど、圧倒的に、不要な痛み(?)が減り、身体が楽になった。
それから、意識が広がるので、焦りも痛みへの恐怖も減った。
何もできない療養中の身としては、ちょっとしたアレクサンダーレッスンの時間だった。

それまでは、無理矢理エイヤ!とがんばっていた緊張によって、自ら不要な痛みを作り上げていたのです。
それをしないと動けないという幻想は、まさに、幻想。
痛くない訳じゃない。でも、今までみたいな我慢の仕方は不要。

[意図する]力は必要なので、からだが弱って頭が働かない・気力がないときは、そんな事していられないのだけど、元気(?)なときは、そうやってトイレにたったり、顔を洗いに行ったりして、実験をしていました。
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で、本題に戻ります。
今日のレッスンで生徒さんの動きを見ていた時

「身体全体に意識を広げてもらいたいな・・・
“もっと、何もしなくていい”ということを知ってもらえるな・・・」

と、感じ、口からでたのは
「もし、身体中が痛い人だったら? 首も腰も足も手も痛くて、無理ができない身体で、身体中をケアしながら動かなければならなかったら? 手も痛くて、物に身体を支えてもらう事もできない人だったら? 自分の身体全部が協力しあって動かなければならなかったら?」という言葉だった。
生徒さんは意識をすばらしく使い、身体を協調させ、そうやって立ち上がる事、動く事、本を読む事ができた。
ブラボー!

この私のサジェスチョンは、誰にとっても有効というわけではない。
フィーリングに入りすぎてしまったり、逆に動けなくなってしまう人もいると思う。
むしろ、この生徒さんには、この言葉で私の言いたい事わかってくれてありがとう、という感じ。

私がリアルタイムでその人の動きをみていて、コミニュケーションがあって、
動きを見ながら、言葉で誘導していることと、生徒さんに、身体の知識がある方だからこそうまくいったのだと思う。

ただ、私の意図を、こういう言葉に置き換えることもできるんだな、
それがとても有効に働く方もいるんだな と学んだ。

で、そこから前半の自分自身の経験を思い出し、
「そういえば、あの時自分はそういう事をしていたよな」と、今回のレッスンとリンクした。
というか、無意識のうちに、自分の経験がそういう伝え方をしたんだろうな。

今、もし、身体中が痛かったら?
と自分に問いタイピングをしているのだけど・・・。
今の私には、あんまり良くないみたいです。
・・・こんな気づきで最後をしめるのも何だけど、
自分自身に気づくための魔法の呪文は、どんどん変わっていってよいと思う。
でも原理は変わらない