信念(使い方)が変わり知覚(機能)が変わる

前回の記事の中にある

「すべての世界が(使い方も)ガラリと変わりました。

いまおきていることを信頼してゆだねる。
抵抗しない、がんばらない。焦らない。
結果を想像どおりにしようとしない。」

の例として、私を救ってくれた印象的な例を挙げたいと思います。

今年の5月、私は入院して、毎日色々な検査をしていました。

そして、ある検査結果を診て主治医が、
「脇のリンパが、すこし炎症をおこしているかも。 ほんの少し。
触診しても全然わからないくらい小さいようですけど・・・。
まだわかりませんが、炎症部分を切り取って検査をするかもしれません。」

とおっしゃったんです。

そのときは、「はあ・・・」って感じでした。
なんとなく、「リンパを切るって・・・危なくないのかなあ」とぼんやり考えていました。

そのぼんやりを看護士さんに尋ねたところ「いやあ、大変大変。それは大変ですね~」といわれ、そこからドキドキし始めてしまったのです。

その後、形成外科のドクターから詳しく検査の説明がありました。
「触診できないほど小さい炎症を採取するの大変なことだ。
砂漠の中で石ころを探すようなもので、
切りながら探していくので、深くなるし、炎症部分を見つけるのは難しい」
と。

メリットデメリット、いろいろな角度から説明をしてくれましたが、その先生からは「ご自分で決めることですが」と前置きされながらも、「やらなくてもよい」と遠まわしに言われているようでした。

実は私は、そのとき検査を提案した主治医に不信感を持っていたんです。

他のドクターたちが「意味がない」と言っている皮膚・脂肪を切り取る検査を行った。
過去、同じ症状で入院したときのどのドクターより数多い検査をする

私はこの先生に対して

「検査が好きなんだな
切られたり、放射線を浴びたり、それは私の身体が受けることなのに、
この先生は意味が薄いようなものでも、とりあえずデータがほしいんだな。。。」

そんな感じに捕らえていました。

だから私は、形成外科の先生の説明を受けて、今回のリンパの生検にはNOを言おうと、決めたんです。
だって、ほんとうに、先生が「難しい・・・!!」って頭を抱えていたので!!!
そんなの見たら、私は怖いです!

主治医に 「リンパの生検は難しいと聞きました。 意味のない検査はしたくないんですど」と言うと
間髪いれず、「意味があるから検査をするんです」と一蹴されてしまいました。
私は、それには、返す言葉がありませんでした。
そんなこと言われるとは思わなかった、という思いと、確かにまあ、そのとおりなのだろうけども・・・という思いの間で。。

そして、その後、恐怖心やら、不信感やら、いろいろ沸いて大変だったんですけれど、
「信頼しよう」ということに信念が定まったとき、世界がガラリと変わったのです。

「信頼しよう」は主治医にではなくて(笑) 私の身に起こることを受け入れようと潔くOKを出したということです。
それは、そのとき抱えていた恐怖感、不信感、葛藤、そういうものは全然私の役に立たないとが、はっきりわかったからです。
私の問題を解決するわけでもなく、私を安心させるわけでもなく、私の症状をラクにするわけでもない。
ただ、毎日を辛くさせているだけ。
これを抱えている間は、主治医ではなく、私が、私を辛くしているのだ、と理解したからです。

それに気づいて、私の身に起きることにOKを出すことにしました。

すると、世界は別世界。

私の信念が変わったとき、私の知覚が代わりました。
大変だ!! 怖いことだぞ!!
と、騒ぐ自分がいなくなったら、問題がなくなってしまったのです。

私が体験しているのは、快適なベッドで好きなときに寝て、ご飯を運んでもらって食べる。
気分がよければ売店にいくし、テレビを見る。
薬が効いているので、日中の痛みはない。
そして呼び出しがかかったら、検査に出向く・・・そんなのんびりした平和な日常でした

私は、私の身に起きることを受け入れよう、そう気持ちよく決めただけです。
それまでやっていた「怖い!嫌い!助けて!」そんな思いが、イヤになっただけのことです。

それなのに、私の目や、呼吸や動きが見違えるほど、ラクになりました。
恐怖や不安に思考が苦しめられることがなくなりました。
変わらない日常が、とても愛しくありがたく思えました。

自分自身で自分を安心の中に身をおくことができるのだと、私ははっきりと体験しました。
状況という条件付けをしている間は、なかなか難しいことでしたが、
条件というものをすっとばして「信頼」の中に身をおくとき、世界がまったく違ってみえて
「次元が変わる」というのは、こういうことをさすのかなと思いました。

予期せず、素敵なことも起こりました。
なんと、「この先生は良い先生だ」と思えたのです。
「この先生は、私の病を調べようと一生懸命になってくれている。
熱心で良い先生だな。先生のいうことなら、安心して身を任せよう」と勝手に思考や気持ちが代わったんです。

これには、われながらびっくり。
でも、とてもうれしいことでした。
そして、それは本当のことであって、いままで私が持っていた不信感の方が、私の作り上げた先生だったのだと思います。
しかし、なんて気分屋なんでしょう・・・。

葛藤が消え、穏やかになり、世界を見渡す余裕ができて、
先生が何を言おうと笑顔で受け答えができました。
そして、その検査をするかしないかの決断が下されるとき
「やはり、難しいとのことなので、やめることにします」という先生の話を聞いて
「やったー!!」ではなく、穏やかな気持ちで「はい。わかりました」と言うことができました。
それが、とてもうれしかったです。

私が、私を辛くしている

これこそが、私の自分の使い方の結果でした。

信念とは使い方の一部

知覚とは、機能の一部

「使い方が変われば機能が変わる」

これは、アレクサンダーが言っていることです。

こういった体験を通して、
いまは私、外の世界ではなく、自分の信念をまず疑わしく思うようになりました(笑)

P.S.
主治医は、私が退院したあとの通院についても考えてくれていました。
自宅から通うことができて、この病気について専門知識を持っている病院を調べ、紹介状を書いてくださいました。
今はそこで診て頂いているわけですが、とても感謝しています。
気分ひとつで「信頼のおけない先生」なんて思った時期を申し訳なく思います。