身体的疲労でアレクサンダーテクニークが使えないという誤解

昨夜は徹夜で、モバイルサイトの修正なんかをしていました。

パソコンを使うときというのは、アレクサンダーテクニークを忘れやすいひとつのシチュエーションです。
没頭、集中、執着、あせり・・・。

パソコンと向き合いながら「やっぱり疲れているときは、アレクサンダーテクニークを使うことが難しいな。でも、寝てないんだから仕方がないのかな?」と思っていました。
アレクサンダーテクニークは「意識」を使うワークだから、元気がないときはうまく使えないと。

つい先ほどまで「風邪と寝不足のダブルパンチで、意識がうまく使えない・・・」と感じていたのですが、今、全然違う状況が訪れています!

私は、BODY CHANCEが行っているアレクサンダーテクニークの「ブックコース」という、アレクサンダー氏が書いた本を読むというコースでモデレーター(司会)をしているのですが、そのコースの最終課題の期限が明後日に迫っています。

先ほど、コースの参加者さんの投稿を読みました。

「投稿を読もう」と思うと
「書いてある内容に向き合おう」と思うと、
そして、その投稿内容に書かれていることを読んでいると、
私の身体は自然と開放され、ちょうど良い身体的支えが生まれ、ゆったりとした呼吸とやわらかく広がった意識が戻ってきました。

これって、一体なんだろう……?

さっきまで、「風邪だから、寝不足だから、疲れているから」と思っていた私の身体は、今は「風邪でも、寝不足でも、疲れていても」ゆったりとしています。

そうして、こうやってキーボードを叩きながら、くつろぎ、自分の身体をまとっていることに暖かさと喜びを感じています。

これって、不思議じゃないですか??

ブックコースで扱っている本は、とても理解しにくい文章です。そしてその内容は、奥深い問題を扱っています。

なので、ブックコースに投稿される内容も、それなりに深さを持ったものになることが多いです。(参加メンバーにもよるのでしょうが)

そのため、投稿を読もうと思ったとき、自然に「すぐに理解したい」「早く読み終わりたい」などという、エンドゲイニング(目的達成に集中しすぎて、プロセスがうまくいっていないこと)の状態から離れることができました。

だれかの書いた文章を読むということは、会っているわけではないけれど、その人と会話をしているようでもあります。

相手が難しい話、重要な話をしているときに、「ちゃんとわかりたい、ゆっくり話しを聞きたい」という状況になるのと同じかもしれません。

ブックコースについての投稿を読む……その高いハードル・大きな刺激が、逆に私の習慣的な反応を抑制してくれました。
(普通は、大きな刺激って、習慣が大きくなるものですが)

投稿を読む前に、私のエンドゲイニングは抑制され、投稿を読みながら、参加者の気づきや疑問という大きなふんわりとした空間に身をゆだねているような開放感を感じました。

アレクサンダーテクニークのレッスンをしているときと同じような、情報の行き来がしやすい意識常態にありました。
「次の瞬間何が起こるかわからない。でも、大丈夫。何が起こっているかわからなくても大丈夫。理解が出来なくても大丈夫。ただ、おきていることとともにいて、それを見続けて、そこに居続ける、プロセスを進み続ける」
目的はあっても、目的に向かってあせらない、そんなとても良い状態。

私の頭は脊椎の上で開放されふわりと浮かび、私の背骨はそれまで受けていたプレッシャーから開放され、手足は自由になり、呼吸がゆったりと身体にはいり、私がさっきまで思っていた「風邪たから、寝不足だから、つかれているから」の理由でアレクサンダーテクニークが使えないということが、「そうではない」のだということがわかりました。

さっきまでとは、別人の身体。
そして、別世界の状況。
状況は、何も変わらずにいますが、でも別世界。

ほんとうにすばらしいことです。