技術の先の、自然さ

最近は、アレクサンダーテクニーク を使うことについて、大きな変化の時期を迎えているような気がしています。
もっと欲張りになったのかもしれない。
「アレクサンダーテクニークじゃ、それは手に入らない」と自分を甘やかしてごまかしていたようなことを「いや、そうじゃない」って、受け入れるような気持ちになったのかもしれない。

私が欲しいと思っているものは、自分でも曖昧で言葉にするのが難しいけれど、それは現在の「自分の使い方」では得られないなあと思う。

アレクサンダーテクニークをちゃんとやる、イコール、自分の使い方について、きちんと面倒を見る・・・それは、甘えていては出来ない・・・と実感中。今更だけど。

自分の面倒をきちんと見ることは、エンドゲイニングに陥らず丁寧に自身と向き合い、身体と精神の調和を大事にしながら、その都度自分の望んでいること・選択をし続けていくこと。

アレクサンダーテクニークを学んだおかげで身体に無理をするような動きが原因となる辛さ・痛みからはラクになれた。本当に。
学び始めた頃は「足の裏に体重を感じない!」
「体重が中心で支えられている」
「身体がなくなったみたいに呼吸がラク」
などといった ”特別の状態” に感じられていたものが、今では普通の状態になり(なので、あの当時の感激もすっかり薄まり)そういう意味では、人生が変わったんだなと思う。

私の「普通」が変わり、同じコトをしていても、違う体験・違う質となって過ごす毎日になった。

「普通」が変わるって、とてもすごいこと!

なんだかここに来て、また「普通」を変えていかなくては、という気持ちがやってきた。

今、受けているアレクサンダーテクニークによる恩恵の、そのまた一歩先にいくぞ、っていう感じ。

学びを続けていけば、変わり続けていくことにはなるけれど、その時々「よいしょ!」っていう時期があるようで、今、またその時なのかな。

以前も感じたことがあるけれど、私の使い方が変わるって、自分のアイデンティティとつながっている部分(習慣)に大きな変化が起きるときは自分が違う人になってしまうような、ちょっとした恐怖がある。「そんな自分、嫌だな」と抵抗感を持ったりもする。そんな人(そんな反応をする人)になっても、大丈夫なのかしら?という不安もある。

未知なる部分なので、どの様に変わっていくのかはわからないけれど、すこうしずつ、甘えた部分の手綱を締めて習慣から「選択」の世界に行くことを練習していこうと思っています。

わたしにとって、この「選択」というのは、自分がコントロールするという部分から(自分がコントロールしたい!!ていう欲求は、私にとってすごい悪習だったりする)”もっと任せる・もっと信頼する”ということに関してのもので、そういう質が増えていったら、なんだか自分じゃないみたい・・・と思うけれど、ここは避けて通れないなあ・・・と、今感じている最中。

アレクサンダーテクニークというものを、身体だけにフォーカスしてしまうと、身体技術みたいなものになってしまう。
そういう一面もあるのだと思うけれど、それはやっぱり一面で、”技術”の先にあるのは、もっと自然で、もっとコントロールの無い世界、まるで技術がないかの様な世界ではないかと思う。
(もちろん、その背後には、ある種のスキルがあるのだけれど)

『自分』の使い方に関するものが、アレクサンダーテクニークなんだから、日常生活の小さなことも大きすぎることも、心身両面でちゃんと自分の面倒をみながら、自分のバランスをとって一歩一歩進んでいくっていうことを、ちゃんとやらなきゃなあ・・・て、やっと覚悟が決まったというか、決まりつつあるというか・・・。

私はパフォーマーでもないし、身体に怪我や痛みがあるわけでもない(持病はあるけど)、緊張癖に悩んでいるわけでもなく、誰かを介護したりサポートするのに身体を酷使しているわけでもない。
ほんとうに、日常を、丁寧に生きるっていうことが、私のするアレクサンダーテクニークなんだなあと思うし、そういえば、それがしたかったんだ!と今はっきり認識できた。

「ここをこえなきゃなあ」って言うことが、「あ、そうだ、あそこに行きたかったんだ!」って気づけたこと、良かったな。

ダラダラとでも、気持ちを文字に起こしてみるものだな~。




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