先生に教わった通りに練習しようとして、不要に緊張しちゃうこと

何かを学ぶときって、生徒は先生の指示を忠実にやろうと思って頑張るんだけど、
不要な緊張を伴ってしまってうまくいかない……ってこと、あるあるだと思う。

例えば、
ピアノを学ぶときに「手は卵の形」とか
ダンスを学ぶときの「天井からつられているように頭を上に」とか
発声を学ぶときの「おなかを大きく動かして」とか…

「ちゃんと」「正しく」「キープして」やろうと思うと、不要な緊張を伴ってしまうこと、身に覚えのある人はたくさんいると思う。

アレクサンダー・テクニークを学ぶときにもそういうことがあって、
 
「自分全体に気づいて」
「どんな違いがありましたか?」
「首を楽に」
 
と言われると、
 
一生懸命気づこうとしたり
一生懸命違いを見つけようとしたり
一生懸命首を楽にしようとしたり
 
不要な緊張を作ってしまうことが、あると思う。
しかも、「楽に」と思っているのに楽じゃなくなっていくのは矛盾があって面白い。
 
私たちは、文字通りそれを「しよう」とするだけではなく、
それをしようとするときのクオリティ管理のために、
どんな言葉、口調、イメージが自分にあっているのか
探ることができる。

私は先生に、「アイスクリーム」っていって首が楽になるなら、それでいいのよと言われて、「うわー!なんて楽しいやりかたなんだ」と思った。

それから、「うちの娘は、ディズニーランドに行こう!というと、体にUPが起こるんだ」というのを聞いて、「そうか、”UP”ってそういうイキイキさと伸びやかさなんだな!」と学んだ。

そして、そう思うと、体はより無理なく反応してくれた。

 
だから、教える側の立場としても、生徒さんにあった「言葉」を見つけることを大事にしたいと思うし、
不要な緊張をつくっちゃう一生懸命なやり方をやめるために、その人にとって必要なアイデアや体験はなんだろうということを、一緒に探求することをしたい。
 
それがうまくいくと、まあ、なんていうことでしょう!こんな考えでうまくいくなんて!
という体験を得られたりして、とても楽しい。
クリエイティブで、自分のためのオーダーメイドって感じがする。
 
体の構造には制限や限界があるけれど、
考えること、思うことはたくさんのバラエティがあって、工夫ができて、
素敵な考えや有用なアイデアがある。
そんな思考や意識の変化で、自分の体の動きがガラリと変わるという体験は、
私にとって、ものすごいエキサイティングで楽しい遊びだ。

コメントを残す

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください