あてにならない感覚的評価が
あてになるようになってきたとき、
感覚を信頼してよいのか

けいこ
今日は、感覚について話してみたいなと思っていて。
 
”無意識な反応の、習慣に囚われている感覚的評価はあてにならない”
という前提はある。
でもアレクサンダーを学んでいるうちに
「今首を引いている」「今コレをしている」っていうのは、
感覚的にわかるようになるじゃない。
ともこ
うんうん。
けいこ
「今、私はこうしたね (習慣的に、こういう癖がでたね)」って言うと、先生も「そうそうそう」って……。
 
自分が実際やっていることと、自分がそうやっていると感じたことが、一致してくる時が……
ともこ
あるよね
けいこ
感覚が鋭くなるじゃない。
アレクサンダーテクニークではそれが目標っていうか……
 
なんていうんだろう……
最初は、意図をクリアにすることで感覚に頼らずにやるけれど、
もし感覚が経験とともに一致してくるなら、
感覚が信頼できるものになってきたと思ったときに……
あき
そうなったら感覚的評価を信頼していいの? ってこと?
けいこ
信頼していいの?
ともこ
基本的に私にとって感覚的評価は、
ビギナーであろうが、そうじゃなかろうが「そうなんだね」って受け入れるもので……

あき
「そうなんだね」って受け入れる……
ともこ
そう「感じている人」にとっては、その感覚は事実だから。
感じている通りのことをやっているとは限らないけれど。
けいこ
はー・・・。
ともこ
「あなたにとってはそう感じるんだね」というのはひとつ受け入れるけれど、
「では、その感覚が正しいから、その感覚で動いて」っていうような動きの「リード」としては使わない。
ビギナーだろうが何年やっていようが。
 
感覚的評価が鋭くなって現実と合っていくることもあるけど……
やっぱり『こともある』だけだと思う。
けいこ
リードには使わない。
ともこ
リードには使わない。
あき
洗練されてこようが、されまいが。
ともこ
そう。
あき
「洗練された」という事実はひとつ、おいといて、何かする時のリードにそれは……
一同
『使わない』
けいこ
あー、あー、なるほど。
あき
感覚をフィードバックとして使うことは、もしかしたら、役にたってくるかもしれない……?
ともこ
フィードバックとして使う時は
「私にとっては、こうだった」という、あくまで“フィードバック”でしかないかな。私には。
 
私自身、アレクサンダーテクニークを始める前と比べて、自分の癖とか緊張状態に気づく感度が上がったとは思うけれど、
感じていることがホントかどうかは……うーん、わからない……いつも。
 
その方が、私にとっては安心できるんだよね。
私の感覚が正しいとか合っているとか思ってしまうと、
なんていうかな……『可能性が減る』気がする。
 
……わかる?
あき けいこ
うーん?
ともこ
感じたことを正しいと思うと、感じていない部分を無視してしまうことになりそうで。
 
感じ取っていること以上のもっと繊細なものがあると思うから、
「わたしはこう感じます」と認識しながらも、
それ以外の膨大な可能性も含めておきたい。
 
感覚的評価が洗練してきても
感度のグラデーションが変わってきたという感じで、
「正しい」「合っている」というカチっとした感じじゃなくて。
けいこ
はあはあ。
けいこ
(アレクサンダーテクニークを使う時に)観察の時点では利用できるものなのかな?
 
たとえば、何かやろうとしている時に、動きの邪魔しているものがあると感じる時。
「肩のあたりに緊張を感じる」とか、「首が固まっているな」とか。
  
「固まっている」っていのは感覚じゃない?
自分がやろうとしていることがうまく出来ないっていう時に、
「あ、それは固まっているからかな」っていうのには、使えるっていうこと?
あき
押し下げが起こっている起こっていないって、感覚を使わないとわからないんじゃないかな。
ともこ
うん。「それは固まっているからかな」っていう、可能性はとしては使えると思う。
 
「首が固まっていると感じている」というのも、主体的な観察結果だよね。
 
でも、首が固まっていると捉えている時、固まっているのはたぶんそこだけじゃないはずだし……
それは部分的な情報のひとつで、「固まっているからかな?」っていうのも、可能性のひとつじゃない?
あき
「そこが、そうなっている」っていう情報じゃなくて、
「何かが体に起こっているぞ」っていう情報。

「ここに、何か起こっている」という情報じゃなくて…

ともこ
うん。全部。全部のうちの一端
 
たとえば、私がすごい頭痛がしていたとするでしょ。
で、首がこっていて痛みもあるとする
……そうすると、ぱっと思いつくのは、
頭が痛いのは、首が緊張しすぎたかな、とか、首が凝っているいるからかも……ていう可能性。
 
で、そこから始まると、
首の緊張が原因だから、それをやめれば治るかも、という発想になる……
その発想が行きすぎちゃうと、首をラクにすれば治る、と勝手に結論づけちゃったり。

でも、本当は何が原因なのかはあやふやなまま。
私が感じていることについて、勝手にいろいろ解釈することは出来るけれど

……寝不足なのかもしれないし、
目を使いすぎたのかもしれないし、
脳内で何かが起きているのかもしれない.……
  
でも、原因が何であろうが、何を感じていようが、
結局アレクサンダーテクニークですることは
頭と胴体の関係性に働きかけて、自分のコーディネーションを面倒みるということだし、
原因の究明にはこだわらないよね。

あき けいこ
うん……(思いをめぐらす)
ともこ
感覚って、繰り返し比べていると、だんだん鋭くなってくるじゃない?

アレクサンダーテクニークのレッスンを受けて、
立ったり座ったり、動いたりレッスンしているうちに、自分のバランスとか緊張状態に気づきやすくはなるけれど
単に感覚的に鋭くなったんじゃなくて、
どこに着目するかコツを見つけただけかもしれない……とも思う。

ちょっと条件が違うと……それが水のなかだったりすると、
感覚的評価なんてあっというまにあてにならなくなったりもする……。

だから、感覚を感じることが鋭くなったのか、
アレクサンダーテクニークというもののレッスンに慣れて、
ある部分について感じ取りやすくなったのか、
そこは微妙だな、って思ったり……。
 
  
私がそれをすごく感じたのは、妊娠中。
おなかが大きくなってきたら、脊椎のバランスも変わって……
自分の(調和を取るための、身体的)方向性がわからなくなっちゃったの。

アレクサンダーテクニークの原理にそって
「首がラク、頭が上、胴体が長く広く」って考えると、
調和がとれたようには感じられなくて「前かがみ」になっている感じがしたの。
アレクサンダーテクニークの習いたての時みたいじゃない?
 
で、「え!? うまくいかないな」と思うんだけど、
足の裏のバランスはいい感じとか、股関節も動きやすいとか、
機能性としては良い感じがする。
でも全体の感覚は「前のめり」な感覚なの。
 
わからないから鏡でみてみるんだけど……感覚に圧倒されて、よくわからない。
ほかのアレクサンダー教師に「どうおもう?」って見てもらって、
「何がいけないのよ?いいじゃないの」って言ってもらって、やっと「変な気がするけど・・・いいんだ」って思えた。
 
やっぱり、慣れと不慣れの条件下で感覚が判断しているだけで、
感覚そのものの精度が上がっているかどうかは……微妙かな……って思うんだよね。

けいこ
その「前かがみになる」っていうフィードバックも、「股関節が機能的に良い」というのも感覚じゃない。
それを、リードにはしないというと……。
 
そっか……。
 
感覚的情報も含めて、全部先生にみてもらう。
股関節が自由になっている感じもあるけれど、前かがみになっている感じもあって……って。
 
楽で軽い部分と、自由になっていないっていう部分、両方含めて先生にみてもらうということか。
ともこ
うんうん。
全部のコーディネーションを見てもらう。
特に頭と胴体の関係性はうまくいっているかな?って。

楽っていうのも、感覚だよね。
でも楽だから身体の調和がとれているとは限らないじゃない?
  
感覚的評価は、わたしにとっては信頼できる程のものではなくて、
私にとって信頼できるのは、演技と一緒で「何を考えているか」の部分かな。

あき
そう、考えていることが、体にどう起こっているかは、わかりづらい……。

ともこ
感覚はわかったりわからなかったり色々だけど、
「考えていたかどうか」はわかるじゃない。
あき
あ、うん。
ともこ
だから今のところ私には、「何を意図するか・考えるか」という部分でアプローチするしかなくて、
でもそれしか出来ないって、一つの安心感があるんだよね。私には。
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