1月 22nd, 2012

津軽三味線でみた素敵な自分の使い方

先日、津軽三味線の演奏を聴く機会がありました。
その、演奏する姿があまりにもすばらしくて、胸が打たれて、涙をこらえるほどでした。

演奏は、合奏と独奏があったのですが、初めは合奏から始まりました。
5人での合奏で、真ん中の方が先生だとすぐに分かりました。

津軽三味線の音は早いテンポでダイナミックで、まるで荒波の中に巻き込まれた様。
けれど、凄まじい音の渦にのまれながら、不思議に思考は静かに静かになっていって、まるでヒーリング音楽のようでした。

そして、私をなにより感動させてくれたのは、その先生の演奏する姿です。

その激しく激流の中にいるような音を演奏している指は、なんとも柔らかく優しく、まるで弦の撫でているかのように上下していました。

胴体は、鏡餅がお供えされているかのような安定感で、ゆったりといすの上に、まるでなにも起っていないかのように置かれていました。

そんな静かで柔軟なボディから、この激しく威勢のよい音楽が生み出されていて、音楽は凄まじく激しいけれど、私の思考も、多分、その演奏者の思考もどんどん澄んでいくような体験・・・。
とてもショッキングで、感動に胸を熱くしました。

先生の横で演奏されている方々も、もちろんこの速く激しい音楽を奏でている上手な方なのですが、先生はもう別格、というように見えました。

私は三味線どころか音楽は何もわからないので、テクニックがどうとか、演奏の質がどうとかは言えないのですが、その方の「自分の使い方」のすばらしさや、それが音楽家にとって難しいということは、アレクサンダーテクニークのを学ぶ中で自分でも実感していますし、たくさんの音楽家のレッスンをみてきたので、よくわかります。

先生以外の演奏者は、弦を押さえる指に過剰な力みが入っていました。
ウエイターさんが手のひらの上にお盆をのせる様な感じで手首を屈曲させて、何かを握ろうとしてみると指や手の甲は緊張しますね。
それと同じ様に、ほかの方の三味線の弦を押さえる指は、不要な緊張によって手首を屈曲させて弦を押さえていたため、力んでしまっていたんです。

緊張は、指や手首だけではなく、腕、身体全体に見えました。

腕は肩に引き込まれ、脇を縮込めたような窮屈な姿勢で演奏されていました。
そのバランスをとるためか、骨盤に乗る体重は左右不均等で胴体をひねった感じになっている方もいました。

でも、それが演奏にとって必要なものでないことは、先生の演奏をみているとよくわかります。

他の方の指の方向性が、引き込んでいるのに対して、
先生の指は、のびのびと先へと進む方向性でした。

引き込む方向性とはどういうことを言っているかというと、鉤爪みたいな感じです。
引っかこうとしているような指。

先へ進むような指とは、空気に文字を書くような指や、犬の背を撫でているような、リラックスしながらも伸びやかに生き生きしたような指。(たとえるの難しいな)

では、その指、腕の使い方はどのようにしたらいいの?
というと、それは指・腕という部分的な対処ではなく、「自分全体」の使い方を変える必要があると、アレクサンダーテクニークでは学びます。

まさに、先生のその美しい指使いは、「指の使い方」ではなく、「自分全体」の使い方の結果でした。
その指の動きをたどっていくと、
触れたらパフパフしているのかしら?と思えそうな、やわらかい手の甲。
手首は存在を主張しないで、まるで手と腕の境目が曖昧に見えるような滑らかさ。
腕は、指が動くところに柔軟に動いてついて行く。
ビブラート(?)のような細かな動きの時にも指に向かって過剰に圧力を加えることなく、肩・肘・指、それぞれの端に向かって伸びやかになりながら、関節は軽やかに細かく動いている。
腕の付け根はとても広くスペースがあって、胴体の呼吸が邪魔される心配がまったくなさそう。

そうやって端からずーっと身体をたどっても、どこもかしこも自由で不要な緊張から開放され、そして必要な緊張によって支えられていた。

このすばらしいバランスを、ダイナミックな演奏中にずっと継続していることの美しさはなんともいえなかった。

今、アレクサンダーの著書「Use of the Self」を毎日1段落づつ熟読中なのですが、ちょうど今日読んだ箇所に、このことが書かれていました。

どんな内容かというと、
俳優であるアレクサンダーは、自分の喉の不具合の問題を解決するために、パフォーマンス(朗誦)の最中には、自分の身体が「長く」なっている必要があるのだと、気づいていた。

でも、実際のパフォーマンス中にその知識を生かしきれず、朗誦しながら不要な緊張で胴体を縮めて「短く」なっていた。

解決策を求めて自分の観察をした彼が気づいたのは、「動き方の誤った場所を見つけて、その部分について改善策を行えばよい」のではなくて、「自分全体の使い方を変えなくてはいけないのだ」ということだった。

先生のこの演奏時の美しさは、「部分的」になんとかできるものではなくて、
「自分全体」まるごと結果なので、ある意味、真似することは難しいのかもしれない。
けれど、アレクサンダーテクニークでは、先生の真似ではなくて、どうしたら「自分全体」の調和に影響を与えることができるのかを教えてくれる。

・目的達成に過剰に集中しないで、ひとつひとつのプロセスを大事にする
・習慣を抑制して、新しい意識的な方向性を自分に与える
・身体の方向性は、首を自由に・頭を前に上に・背中を長く広く

なんて書いても、具体的によくわからないですね。
なので私としては、すこしづつ体験したり見たりしたことをブログにしていきたいなと思っています。

読めばできるようになる、とか
こうやってやるんだよ、とかいうのを書ければよいのだけど、
どうやって伝えていいのか分かりません。
ごめんなさい。

そういうのは書けないのだけど、アレクサンダー・フィルターを通して私が見たものや、体験したことを小出しにしていって、
「ふむふむ、アレクサンダーテクニークを学んだり教えたりして、その経験からこういうふうに世界を観たり体験することがあるんだな」というのが伝わればと思っております。

今回は、「首が自由で・頭が前へ上へ・背中が長く広く」の状態を、先生の、「鏡餅みたいな胴体」の中に見ました。どっしり安定感。

そして、アレクサンダーテクニークでいう「non-doing」という質も、先生の無駄のない動きの中に見えました。

私の感動を引き起こしたのは、間違いなくその中央で演奏していた先生の「自分の使い方」なのですが、以前、あるアレクサンダーテクニークの先生が「使い方って何だと思う?」といって、ドアから出て行って、またドアから入ってきて「私が入ってきて、何が変わったと思う?その人がいるその存在の質、それが自分の使い方じゃないかな」というような授業がありました。
存在の質。その人がいることで変わる空気や影響力。
ほんとにそうですね。

ひさびさに、アレクサンダー目線で人の動きの観察をして、やっぱりアレクサンダーテクニークってすごいな、可能性がすぐそこに、手の届くところにくるんだもんな、と思いました。
いきなり、この三味線の先生のようにジャンプアップするわけではないけれど、この先生の素敵さのエッセンスは、アレクサンダーテクニークの中にある。
というか、わたしがアレクサンダー目線で、先生の素敵さを見ていたということなんだけど。

ブログにするにあたって、動きについて文章化していると、まるで上手い・下手の2極のようになってしまったのですが、そういうわけではなく動きのクオリティはもっとデリケートで味わい深いもののように思っています。

そして、レッスンをしていると、「自分の使い方が下手な人だな」と思うようなこともありません。
たぶんそれは、その人の、そうじゃない姿も同時に知っているからだと思います。
できる・できない、ではなく、みんなある習慣の中にいるけれど、その習慣にいないその人がその奥にある。
習慣というのは、ある信念の下に存在している「いつもの○○」であって、それとは全然関係なく、プライマリーコントロールに支えられたもっと違うその人の可能性があることが分かっていると、安心して習慣を眺めることもできるように思います。
もちろん、習慣の中にいる自由さもあるし、習慣という個性の素敵さもあると思います。

今回、先生と比較して他の演奏者の習慣的な動きについても書かせていただいたのですが、演奏を見ながら、その習慣的な動きを見ながら同時に、内在しているもっと自由にうごけるその人の可能性も同時に見ていました。
なので、アレクサンダーテクニークはダメだしのワークではないのでおびえないでください。

「なんかこわいな、緊張しすぎだとか、こんな習慣があるとか、まったく分かってないな、なんて思われちゃうかも・・・」とかいう心配は不要です。
なんか、そういう印象を抱かせてしまうようなことを書いてしまったかもと、少しビクビクしてしまいました。

教師は、客観的な観察をする立場として存在し、「こういう習慣があるみたいですよ、知っていましたか?」「このときは、こんな風に考えてやってみるとどうかな?」ということを実践的にレッスンします。
全然怖くないです。楽しいです。

 

最後に、・・今回の演奏は、ほんとにほんとに感動的でした。

何日もたっているのですが、いまだに衝撃が残っています。
あの先生の演奏と姿を思い出すと、自分の中のバランスが取れてきます。
津軽三味線というものを生で聴くのも初めてだったので、その感動もひとしおです。
演奏に感動する
演奏者の自分の使い方に感動する
演奏者の可能性に感動する

激しい音楽の中で、胸が熱くパンパンになる体験でした。感謝kira01.gif

1月 10th, 2012

レッスンの受付、のんびりスタート

ブログを更新したら、何を思い立ったか、レッスンの受付再開に踏み切ってしまいました。
自分でも突然でびっくり。

とはいっても、正式に再開というより
「ご希望があったらご相談ください」くらいの感じで。
「状況がOKな時は、ありがたくお受けします」というスタンスでスタートさせてください。

毎週バリバリレッスンしたい!というご希望には添えそうにないですが、
お互いの状況があった時には・・みたいな感じでしょうか。

そんなのんびりレッスンでOKなかたは、どうぞよろしくお願いします。
また、そんな感じで、ご相談に応じて出張とかも出来るかなーと思っています。

フルタイムでがんがん行くぞ!というハードルには遠くとも、
出来るときに出来ることを、というスタンスでいくことにしました・・・。

そんなかんじののんびりレッスン受付なので、料金のほうも改定しました。
とりあえず、のんびり状況が続く間は、特別設定料金で行きます。(それでもよいといってくれる方がいればですが)

くわしくは、個人レッスンのページにて

どうぞよろしくお願いします。

1月 10th, 2012

あけましてめでとうございます。

ずいぶんと遅れてしまいましたが、皆様あけましておめでとうございます。
今年が、この世界のすべての生命にとって、輝かしいものとなりますように。

このブログ、だいぶ放置状態となってしまっていました。
気づけば最後の更新は昨年の9月だったようで、我ながらびっくりしています。
本当に時間があっという間に過ぎ去っていくように感じます。

時間がすぎるのはあっという間ですが、なんだか以前より時間を濃密にすごせているような気もします。
普通に暮らしているだけですが、いろいろ目の覚めるようなことも多く、今まで当たり前であったことがそうではなくなったり、無意識に持っていた制限を手放すことも出来たりして、今までは「去年と全く変わっていない自分」と感じるばかりだったのが、今年は「昨年の今とはだいぶ違うなあ」と思えることを、過ぎ去った時間に感謝したく思います。

そして、これから来る時間・・・今年の活動については、まだ未定です。
体調のほうは、おかげさまでよくなりました。
ご心配くださった方々、ほんとうにありがとうございます。
余裕を持ちながらレッスンを始めたいとは思っているのですが、まだ子供の預け先の問題がクリアとなっていないので、本格的にレッスン再開というところまではいっていません。

あ、でも、2/11にBODY CHANCEで特別クラスをさせていただけることになりました。
BODY CHANCEの生徒さん、ぜひご参加ください。
短い時間ですが、お茶会をレッスンとして行う予定です。
キッチンに立ったり、食器を運んだり、座ってお話したり・・・どの瞬間も、行為することのレッスンとして取り上げることができます。
・・・とはいえ、雑談会で終わったりして。 まあ、それでもいいかなと思っています。

昨年、用事があって久しぶりにスタジオに行き、子連れで教師のためのクラスにも参加したのですが・・・、この雰囲気大好きだなあと改めて思いました。
なじみの仲間たちとのんびりくつろぎながらレッスンを受けることができて、とても楽しかったです。

レッスンを受ける場の雰囲気が好きだということは、継続の大きな要因ですね。
学びの目的以外で、そこに行く充分な理由になる。

久々の教師クラスは、「ご自由にどうぞ」感があって、レッスンを受けるも、見るだけなのも、へんな質問も、超個人的なフィードバックもあり。
友達の家に遊びに行っているみたいな雰囲気が(まあ、まさしく、友達と集まっているのですが)レッスン感がなくてよかったです。

教師クラスはグループレッスンですが、個人の「私は○○についてレッスンしてほしい」という希望に応じてレッスンをしてもらいます。
私は、「レッスンすることを、レッスンする」というティーチングレッスンを希望したのですが、レッスンの途中で子供が泣いてしまって、
「じゃあ、抱っこしながらやろう」と、子供を抱っこしながらレッスンすることを試しました。

レッスン写真

それを見た先生のジェレミーが「マージもティーカップを持ちながらレッスンしていたよ!」と。
マージというのは、マージョリー・バーストーのこと。
アレクサンダーの直弟子でマスターティーチャーの一人です。
ジェレミーにとっては、自分の先生。私にとっては、先生の先生。
マージはお茶を飲みながら片手でレッスンすることがあったんだなあと、当時の気楽な雰囲気が伝わってくる言葉でした。

そういう和やかなレッスンの場にまた戻れること、そして作ることを、今年も楽しみにしています。(計画は未定ですが)

絶対やったるぞー!みたいな気負いは負わず、焦点をもちつつも流れに身を任せて、不意の出来事も「おお!」と楽しめる一年となるといいな。

皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

9月 22nd, 2011

アレクサンダーテクニークで開かれる表現力

本棚を整理しているときに、古いレッスンノートを開きました。
私がアレクサンダーテクニークの訓練生だったころのノートです。

その中に、アクティビティレッスンの記録がありました。

それは、「子供と話す」というレッスン。
「子供が言うことを聞いてくれない。わかってくれない」 それについてのレッスンでした。

子供を叱る、上司に意見を言う、友人に文句を言う

そういったレッスンも、アレクサンダーテクニークのアクティビティレッスンとして扱われることが多くあります。

アクティビティレッスンとは、実際にその行為を行いながら行うレッスンです。
ノートに記録されていた「子供にわかってもらう」レッスンで、私は子供役になり、母親に叱られる側からレッスンの観察をしていました。

始めに、生徒さん(お母さん役)は、いつものようおに子供(私)に話はじめます。
何を話されたのかは記録になく、記憶にもありません。
でも、ノートには「お説教。 お説教というより、批判され拒絶されている様だった」と、そのときの気持ちが書かれていました。

次に、アレクサンダー教師が生徒さん(お母さん役)にハンズオンレッスンを行います。
 (*ハンズオンレッスン=教師が生徒に触れて、頭・胴体の調和する関係がやってくるように助けます。)
教師に触れられながら、お母さん役が、また話しはじめます。

すると、お母さん役の話し方がまったく変わってしまったのです。
いまにも泣きそうな、そんな様子に。

私はこう記録しています。
「とても悲しそうだった。お説教ではなく、とても心配していて、お母さん自身が不安で仕方がないんだなと感じた。 
実際にああいうふうに、”母親”としてではなく、一人の弱い人間という部分が見えるところから語られたら、私は本当に動揺するだろうな。
本当に、言われていることに耳を傾けて、そのことについて考えようとするだろうな。」

私は、そのお母さん役のコトバではなく、その存在全体からメッセージを受け取ったようです。
そして、さっきとまるで違った様子に驚きつつも、実際に自分が実の母親からそのように語られたら動揺し、話に耳を傾け、その訴えについて考えるだろう・・・と、わが身に照らし合わせて心を打たれたようです。

レッスンの課題「子供が言うことを聞いてくれない。わかってくれない」という問題が、お母さんの身体に調和がやってきたとき、このような流れになった面白さ。
それを、頭ではなく、心で理解するという体験をしました。

このノートを読み返しながら、とても新鮮な思いでした。

アレクサンダーテクニークのレッスンで”話す”というレッスンの結果として「はっきり、クリアに、明確になる」ということがよくあることですが、それとは違った表現力が引き出されるというのも、大事に心にとめておきたい部分です。

感情が声をかすれさせ、震えさせてしまったことによって、もしかしたら「うまく語れていない」と感じるかもしれません。
けれども、「自分の思いについて述べる」その伝える力は断然繊細になり、真実味を帯びて私(子供役)の方に届いてきました。

このシチュエーションは、コトバを伝えなければならない「セリフ」や「歌」というものとは違います。
「子供にわかってもらう」この目的を十分に果した素敵なレッスンでした。

私が音楽家や役者さんなど表現者の方たちとアレクサンダーテクニークのレッスンをしていて心打たれるのも同じような視点からです。
その人の動き、声、表現する音、そういったものから「その人の想い」もしくは「その人自身」がより繊細に伝わってくることが、奇跡のように起こるからでした。
(ただし、彼らの場合は感情に乱されて何を言っているのかわからない、音程が狂う・・・となったらうまくいかないので、そうならないためのレッスンになることも多いです)

実際、はじめてアレクサンダーテクニークのアクティビティレッスンを見たときは、マジックか魔法か・・・ホントにそんな奇跡を目にしているようで、とても感動しました。

「思いが、伝わる」 それは、ごく普通で自然のことなので技術ではないのかもしれませんが、多くの人がそれを抑制しながら表現しているのを見ると、表現できるようにすることはやはり「技術」に含まれるのかもしれません。

私たちは、「伝えるために、何かをしなくては」と考えたりしますけど、
本質的には、自分の抱えているものは「伝わってしまう」ことがほとんどであるように思います。
そして「何とかしなくては」を抱えているときには、その「何とかしなくては」の必死さの方が伝わってしまって、「伝えたいこと」の方が伝わらなかったりすることもありますね。

そもそも、私たちは「受け取る力」というものもいろいろフィルターを抱えていることが多いので、伝える側だけの問題ではないと思いますが、それでも自分のあり方ひとつで、伝える態度・受け取る態度は変わりますし、自分のあり方が変われば、相手のあり方が変わることも多いです。
「自分の使い方」は伝染しますから。

古いノートを読み返し、
伝える力は、必ずしも明朗に話すこととイコールではないこと
アレクサンダーテクニークによって起こることは、「あるべき姿」ではなく、その人の生命感が花咲くような姿であることを思い出しました。

9月 8th, 2011

眠れない夜にアレクサンダーガイダンス

先ほどまで、眠いのに眠りたいのに眠れない・・・という状況で布団の中にいました。

昨日・今日と出かけていて、そのときに体験したことを振り返ってしまい、脳みそがなかなか寝てくれないのです。

身体はなんだかこわばっていて、疲れているのに開放されず、ゆっくり布団の上で休めない、そんな状態でした。

布団の中で、ぐるぐるいろいろなことを回想中、私の先生の一人であるキャシーとのレッスンも思い出されました。

以前、子供を抱っこする姿をレッスンしてもらったのです。
キャシーにレッスンで教えてもらったのは、私は子供を抱っこするとき、肩を後ろに寄せるような方向性で、ほんの少し腕を引き込む癖があるということでした。

背骨をちょっぴり反らせ・頭・胴体を押し縮めて抱っこをするような状態ともいえます。

アレクサンダーテクニークではディレクションを

首が自由に
頭は前へ上へ
背中は長く広く

と表現するのが一般的ですが、実際のレッスンでそれに該当するものへ導くとき、キャシーはちょっと違うガイドをくれます。

彼女のガイドは

「頭が動いて身体全体がついてきて○○することができる。」

です。

私は布団の中で「頭が動いて身体全体がついてくる」と心の中で言いました。
・・・それでも、快適に眠りにさそう状況がやってきません。

「あ、わすれてた。  ”○○できる”  の部分」

そうしてもう一度自分に言いました。

「頭が動いて体全体がついてきて眠ることができる」

すると、頭がすっと動くと同時に背中がゆるみ、腕がふわりと脱力するように楽になり、布団の上で気持ちよく横たわる状態になったんです。

うわーーー。そうだ、私は脊椎動物だった。
そう連想されっる位、頭と背骨が連なってゆったりし、まるで自分が蛇になったかのような感じがしました。
きもちいい・・・ああ、これで眠れる・・。

どうやらわたしは、以前キャシーに教えてもらった脊椎を縮めながら腕を引き込む癖を布団の中まで引きずっていたようです。

そして、気持ちよくなって、このまま眠れるなあとおもいながら、
さて、このことを明日ブログに書くか、今書くかと考えました。

いまはこのまま寝てしまいたいというのが本音だけれど、今書かなかったら、明日は書かないだろう。
それに、いま起きてももう一度、「頭が動いて体全体がついていって、眠ることができる」をやればいいだけだ、と考えました。

この、最後に「○○することが出来る」で締めくくることは、大事なことだと思います。

キャシーとのレッスンで、「うまくいかない」と相談したとき、
「あなた、最後まで ”○○することが出来る” って言った?」と聞かれました。

「あ!言ってない!」

そうして、彼女のアドバイスにしたがって”○○することが出来る” を付け足すとうまくいく、という体験をしたことがあります。

(なのに、今回、また忘れてしまったのですけど)

私自身が行うレッスンでもこの言葉を使うときがあります。

たとえば、「仕事中、身体がガチガチになる。もっと楽な身体ですばやく行いたい」という希望でレッスンをいくつかしたことがありますが
(この問題でレッスンを希望されるかたは、結構います。)

そのときも

「頭が動いて体全体がついていって、○○することができる」で、うまい具合に、ラクに、早く出来る姿を何度もみてきました。

そして、多くの方が、ラクに早く動きながら、自分のこの状態に驚いていたり、笑っていたりしました。

レッスンの中では、単にそのことばを思う・言うだけではなくて、教師のハンズオンという手助けがあるわけですが、「行為の中で考える」「その行為が何かを含めて考える」というのは、動きの連続性を助けてくれると思います。

ということで、もういちど

「頭が動いて身体全体がついていって、入力することが出来る」

と思いながらブログを書く作業を終了し

「頭が動いて体全体がついていって眠ることが出来る」に移りたいと思います。