思考のケアとライフスタイルの変化

今日は、連続投稿になります。
長い間、レッスンやブログをお休みしていましたが、気づいたことは色々あって、
そのつど「あ、これはブログにアップしたい」と思うのですが、もうすっかり忘れてしまいました。。。
そのうちひょっこり出てくるとよいな。

前回の病気と使い方のテーマの続きなのですが、アレクサンダーの本を読んで
「使い方を改善することで病気が回復するのなら、私だってそうしたいところだけれど・・・!!」
と、イラっときました。(笑)

アレクサンダーの主張に希望を見出しつつも、納得できるように自分の使い方を面倒見ることが出来ず、未熟さを感じました。
それに、「使い方だけが問題じゃないよ。」と、反抗的な自分もいました。

とはいえ、使い方が人間の生理的機能、思考に影響を与えることは疑いの余地はありません。

少しでも自分の使いかたを気をつけようとしましたが、思い出しては、忘れ、思い出しては、忘れ・・・
私の思考はすぐにフラっとどこかに行ってしまいます。

病院の待合でアレクサンダーの本を読んで、「よし!気合が入った、気をつけていこう!」と思った矢先、
診療室で先生と話すときには、「え?それって、こういうことですか??」と、身を縮めながら先生と話している始末。

そんな自分をリアルタイムで観察できているだけ、まだましな状況だとは思いますが、自分のしていることがわかっても自分の使い方を十分に方向付けることができないのに、24時間自分の使い方を面倒見続けることが出来るわけありません。

よく生徒さんが、すぐに忘れてしまう、変えようと思っても変えられなかった、おっしゃいますが、そんなもんです。
その度合いがレッスンの積み重ねで変わっていくだけのように思います。

私にとって、自分の使い方の面倒をみることによい刺激となったのは、
ひとつはアレクサンダーが書いた本を読むこと。自然に意識が変わってきます。
でもこれは、時間がたつとすぐにその緊張感が途切れてしまう方法でした。

一番よかったのは、思考のケアをすること。
焦りや、怒りや悲しみは、自然とカラダの使い方を悪くさせてしまいました。
一瞬の落胆で、カラダの方もガクっとサポートを失います。

「それなら、ポジティブにならなくては・・・!」ということかとそういうわけではなくて、逆にそんなことをしたら過緊張を
生み出して、精神的ストレスでまたがっくり反動がきます。

落ち込まず、張り切らず、「ゆだねる」というのが、私にはとてもよかったです。
なんだかありきたりですが。

アレクサンダーテクニークには「感覚的評価はあてにならない」というのがありますが、
それの拡大解釈といいますか
今起きていることは、一見、残念なことにおもえるけれど・・・そのフィーリングについていかない。
すると、すべての世界が(使い方も)ガラリと変わりました。 ほんとうに。

いまおきていることを信頼してゆだねる。
抵抗しない、がんばらない。焦らない。
結果を想像どおりにしようとしない。

それって、アレクサンダーテクニークの原理にあることです。
結果をコントロールしようとしないことも。

結果をコントロールしないということと、望みをすてることは違います。
望みが変わることのように思えました。
結果を得ようとすることから、まずは、いまのプロセスを大事にしよう、ということに。

実際には、「結果を想像通りにしようとしない」ということは難しかったです。
「治りたい」のは事実で、治りたくないわけない。
けれど、いろいろジタバタしたところで、スポーンと
「もう、だめだ、受け入れよう。それしかできない」
というプロセスがきたようにおもいます。

昔、ある人が「全部捨てたら、うまく言ったの。ホームレスになってもいいやと思って全部任せたら、今住んでいるこの家に出会えたんです」とお話くださった方がいて、
他の人に「あの人はあんな風に言っていたけれど、あなたは、ほしいものを全身全霊で追えって言いますね。どっちなんでしょうね」と聞いたんです。
そしたらその方は、「一緒ですよ。ほしいものを追ったこともなくて、あきらめられるの?全身全霊で追いかけて最後に、ポーンと捨てられるのよ」と、おっしゃっていました。

なんか、あれを思い出しました。
とは言っても、私はそんな執着を手放すという段階ではなく、治りたいなあって思っていますけども、前ほどジタバタしなくなったのかな。

ゆだねるとき、アレクサンダーテクニークの原理では新しい方向性の「意図」に自分をゆだねるわけですが、
今回の私は何にゆだねたんでしょう?
運命かもしれないし、自分の体の生命力というものかもしれないし。
ただ、「自分が把握している自分」には解決不能だと認めたんです。いい意味であきらめた。
それが、「なんとかしよう」という、アレクサンダー用語でいうところのdoingからは離れられたように思います。

なんとかしようとするのをやめて、ゆだね、いまの自分の体を大事にしようとおもったとき、
安心して痛くなることができて、痛みへの戦いや焦りが減ったり、
早く寝よう
とか、
無理して家事するのはやめよう
とか
そういうことを、ストレスなく行うことができました。
いつも100パーセントとはいきませんが。

そうやって、過ごしているうちに、だんだん、痛みが少なくなってきました。
痛みがへると「おお!?もしや!!」と思って、その方向性で生活を続けていきました。

そうやってライフスタイルが変わってきたことは大きなことだと思います。
時間の過ごし方、予定の取り扱い方、望みとのかかわり方も変わりました。
「そうしなくてはいけない」からではなく、自然とそうできるようになったことがとてもよかったです。

アレクサンダーテクニークの本の副題にもありますね、
「姿勢が変わる・からだが変わる・生き方が変わる」って。

それまでは、家事と子育てと自分の身体で必死な感じもあったけれど、
のんびりのんびり、今できないことは、今できないことと気持ちよく切り捨てて、
子供と一緒に早ね早起き、お昼ねたっぷり、時間を気にせず、メールの返信もまあいいや・・・という具合になりました。
(今日は夜更かしさんです)

そうやってすごしていると、キモチがとても平和でうれしかったです。

まだ、携帯やパソコンが普及していない時代
勉強や仕事に追われていない頃
ただ目の前の出来事で楽しく遊んでいた子供のころの時間みたいなものかもしれません。

「心身の使い方」を見直す良い機会になっています。